人に合わす。世間よし。

体は弱いけどスポーツはする。何故なんだろう。車に跳ね飛ばされたら死ぬけど。他の殆どのところでは便利で。体が丈夫で動くってことは。だけど車と体って全然違うってわけじゃない。だいたい俺たちは車を運転するし。そんなわけで車と俺たちも全然別じゃない。だけど俺たちは車ぐらい平気で潰す。車の上で跳ね回ることだってできる。車に跳ね飛ばされたら死ぬ。車を潰せる。だけど飛んできた車を潰したら中の人が死ぬ。怖いぐらいの俺たちのタイムスケール。人類は遅くて速い生き物。その幅は益々大きくなっていくだろう。NBAでプレイすること。丘ミニバスで生きていくこと。それはただ2つに分かれちゃうような生き方じゃないだろう?「生きなさい」母が言ってるような気がした。だけどどうやって?それを俺が考えるんだよ。小さい頃はラストショットが美しいと思ってた。今は土台ばかりを解析している。ラストショットなんて走り回った結果だって。つまりは観客からプレーヤーに。だけど好きなプレーヤーを探してるし。つまりは最高の観客でありたいんだ。だから最高のプレーヤーでいる必要があるんだ。この時タイムスケールは片や最高で片や止まっている。止まってはいるんだけど彼も私も自由にシンクロしているみたいだ。時間と空間の境界線なんて漣のように曖昧で。止まっている体は本当に止まっているわけ?そんなわけないよね。ただ宇宙までインテグラルしたセンターを考えたら今の常識で「止まっている」と答えるのが妥当なだけだ。そんな妥当な言葉を交わし合って俺たちもまた漣のように交差点を行き交う。渋谷の「渋」って字の「×」の部分がスクランブル交差点に感じてた。だけど文字にしたのはこれが初めてだな。そしたらなんかケツに刺さったような気がしたんだ。俺はよけたよ。