太鼓の形を聴くことが出来るか

統計力学と境界問題である。ぼくらはたいこ。リムは人。自分が緩んでるときは誰かを「鳴ってほしい」だけどなかなか思ってるようには人の顔にはその人の気持ちは表れない。だって僕が生きてきた環境とはまるで違う。その人が苦労してるかどうかなんてわからない。だから人は馴れ合いのフラグをたてて「顔」をみんなで合わせようとする。

それにしてもだ。標記の問題である。これは確率の問題にしかならないのではあるまいか。確率として太鼓の形を予測するのである。この予測の仕方は超弦論でもさして変わっていないように思える。我々は有効な繰り込みを探してそれを見つけたら「やった。」という。これを繰り返し繰り返し人は世界のベールを一枚一枚剥がしてきた。究極に言いたいのは「時間閉曲線は存在しますか?」ということなのだろう。だがその時間閉曲線を知るためにアト秒フェムト秒と時間閉曲線をデルタ関数的に引き伸ばしてきたのは皮肉だ。物理学者はそこに飛び込めるかもしれないが、その引き延ばしの時間を作ってきたのは様々な宗教と最先端の科学者の間にいる「少し努力した人」たちなのかもしれない。彼らには一向に物理と宗教両方の恩恵を受けていない。ヤバめのYouTuberにでもなるしかない状況だ。でなきゃ半グレの海に飲み込まれてしまいそうだ。父も母も頑張ったけど報われなかった。社会に3/4平伏して生きてたのに。そんな親を見てきたならなおさらだ。

あなたにはあなたの時間閉曲線がある。そう確かに言ってやりたい。それは名前だろう。それが自分の物理に結び付いていることを。自分のζに結び付いていることを。どうやったら伝えられるだろうか。サッカーが上手くなくてもいい。バスケが上手くなくてもいい。自分を諦めないでほしい。あなたが世界の中心じゃないならいったい何が世界の中心なんだ?

太鼓の形は人だろう。それを人が聴こうとする限り。そしてそれはすべてだ。太鼓の形はその人が見たい世界だろう。私がそれを証明しよう。君が目覚めたら君が証明してくれ。我々の脳の中にはものすごい次元がある。それが4次元にまとまっていて爆発することはないんだろう。