完璧な弦理論は本質的なスペクトルであろう

標記の議論をするまえに私の好きな数学者の話をしたい。その数学者の名前を私はしばらく思い出せずにいた。なんとか検索したいと思ってその数学者が「砂漠で生まれた」というような文献を見たことを思い出した。その数学者がアメリカの数学者だということもわかっていた。そして素数に関わる仕事をしたということも。何を隠そう私はその数学者の事をマーカス・デュ・ソートイの「素数の音楽」で知ったのだった。その数学者は女性で、私は「アメリカ 数学者 女性 ネバダ州」あたりのキーワードを使って探してみたがなかなか見つからない。そのあたりから私は「もしかしたらカナダの数学者だったかもしれない」と思うようになり、しまいには「カナダ人の数学者には、なにか「傾向」があるんじゃないか」とかほぼほぼその方とは関係のない検索へとシフトしていってしまった。それから私は、「もしかしたらその数学者の名前が知りたいんじゃなくてその数式が知りたいんじゃないのか」と、ごく当たり前のことを考えるようになった。そしたら今度は「その数式に自分で辿り着く頃にはその数学者の名前も自然と出てくるようになるだろう」などと考えるようになった。結局その数学者はジュリア・ロビンソンだったのだが一貫して私のイメージにあったのは「砂漠の中の一軒家で空想を広げる二人の姉妹」だったと思われる。そして式の方はユーリ・マチャセビッチによる「マチャセビッチの多項式」だった。本の中ではそのマチャセビッチの多項式が発表されたがそれを見たよくわからないけどたぶん偉人が「これじゃ何もわからない」と言ったとか。ほんとうにそうなのだろうか。マイナスの解にも何かしら意味があったりするのでは?私にはそこに出てくるアルファベット全てがまるでジュリアが見ていた砂漠の砂のようで、たくさんある砂の粒が繋がってキラキラと輝きだすようなそんな美しい式に感じた。いまWikipediaを見てみるとジュリアが育ったミズーリ州にそんな砂漠ってあります?って感じなのだが、私にはとても「絵画的な」式であるように思えるのだ。

標記の議題に戻ると本質的なスペクトルとは「徹底的に可逆でない」スペクトルのことだ。私にとってマチャセビッチの多項式とそれにまつわるロビンソン姉妹のイメージはかなりとっておきの話だが、それがスペクトルと弦理論と何の関係があるのか。もしだ。この世界に人の名前以外に「物理的なプラットホームがない」としたらどうだろうか。人の名前は「認識される」という意味で本質的なスペクトルではない。私がイメージしているのはこのだだっ広い宇宙空間でバラバラに暮らしている人類が「真に一本な弦」であるとき「認識されること」は「最後の物理」であるということ。つまりは「共通に認識されていること=物理」であるとするならばだ。我々は本質的なスペクトルであるだろう。つまりは我々は「違う」ということだ。