塾の先生

塾の先生はただ学者になりたい子を教えるだけじゃなくいい学校に入りたい子も教えなくてはいけないので教え方の気持ちが二つに分かれてしまう。あるいはこの二つは同じ事なのかもしれないが常に二つを両立させなければならない。その意味で自分の気持ちと合格率を上げるという役目に自分の時間のなさを感じてしまう。それはいつも子供の時間のなさだからだ。因果な役目を担ったものだが卑しい商売ではなく迎えに行ったときの子供たちのタカビーさ(高飛車なこと)から親としての自分の在り方さえも考えさせられてしまう。子供に対して「道を譲る」でも(無条件に)良くないし高飛車なパワーハラスメントな部分を「肯定する」でも良くないだろう。それは男の存在にも似てる気がする。男は如何に在るべきか。無条件に道を譲ることが自分の存在を危うくすることに危機感を感じているだけかもしれない。むしろ無条件に道を譲るほうが良いのかもしれない。ただ思うのは月28,000円の月謝が次の世代でも支払われなければならないものだと感じるのは少々違った感じがする。ほんとは学びは遊びを通して伸ばしていくもので、例えば他の子にけんかで負けたから遠回りしてフリップバックを覚えたとか。時間がなくなってしまって「これはもう受験ですので公式として覚えてください。」とういうのが「子供の頃に感じていた素朴な疑問」に結びつかなくなるのは怖いことだと思う。だから子供たちはうるさいことをいう大人の話などきかなくなってしまう。結局は無条件に道を譲ることに耐え切れなくなっただけだろう。限られた時間で結果を出す。1年とか2年とか。半年とか3ヶ月とか1ヶ月とか1週間とか1日とか。受験そのものには色がない。つまり人に勝つことには色はないのだ。自由はどうだろうか。断る理由で張り巡らされた私は。愛。

うまい汁を啜り合う色。それに纏わる永遠の答えの探索。子供は俺らのコピーじゃない。宇宙は俺らのコピーじゃないとわかってるけど。悩んでる間にやれるかどうか。スポーツ観戦。まあいいだろうとなるだろう。左手を使うことも。跡形もなくなるぐらいぶっ殺してやるからこっち来いっつってんだよ。やだよばか。1オクターブ低く歌う前のToshIはそう言った。1オクターブ低く歌う前のToshIはなんて言うと思う?わかってんのかよおまえ。ちょ。ちょっとからかっただけだよ?パクリにツッコム。もう喉なんて使わねーよ。それも下顎だから。何故のエゴサーチ?せかいは俺のコピーじゃないから。受験という恰も不自由な不定計量。そのノルムは負となる。我々は定まらない命のビューポイントで決定系を下す。