⟲に飛び込んだのは誰だ?

重機は他人でなくてはならない。引きちぎられるのは空でなくてはならない。我々はひとつの命のためにマンションひとつでもつぶさなくてはならない。界面に人が狭窄されている。界面をひきはがすのはいいことだとおもわれる。界面は辿っていけば同じ物質である。我々はトイレの中に住んでいるといわざるをえない。蓋を開けてトイレと蓋の間に角度が生まれる。果たして界面と見分けたい角度は同じ量子の次元に含まれるかはわからない。まさか量子の蓋が人をぱくぱくと食っているわけではあるまい。きゃべつの蓋はウニだという。そんな一次元の展開が眠いか眠くないかの台帳に記されていく。開きすぎるのは距離であり、犬が食いたい以上の距離を飛び付くことはあるまい。一方猫はあっさり切ってしまうだろう。半歩切り開かれた円はテーブルに見えるがトイレのふちであったのだ。こうして我々は狭窄を一通り置いておく。果たしてトイレの汚れとトイレも同一のものであったかわからない。果たして我々がやりたかったのはトイレを擦る行為そのものであったような気がしてくる。果たしてその初速はどのようにして与えられたか。⟲に飛び込んだのは誰だ?ウニはキャベツをめちゃくちゃ食うというが、磯焼けしてる海にキャベツをばら撒いたらウニはまるまると太ってくれるんだろうな。廃棄のキャベツはたくさんあるだろうし、廃棄とならなくてもキャベツの外側の皮は何枚かは廃棄されそうだ。仮に公共のものだという理由で海にキャベツをばら撒けないとして海岸線沿いにウニセンターを作って海水を入れたとしてキャベツの方も山の田畑を使ったらウニには困らなくなるんだろうな。そう思ったところでそんなにウニも食いたくないやと思ってしまう。ただ食べたいなという理由で生態系をあちらからこちらへ移す作業を「センターを作る」「食す」とやっていたらセンターを作るという作業がメインになってしまい、食すという行為がうんざりするまたはそっちのけになってしまう。手を掛けるという作業を失って毎日ウニをなんとかおいしく食べようとグラタンにしてみたりシャーベットにしてみたりするんだろうか。だいたいウニだらけの海なんて泳げなくなっちゃうんじゃないだろうか。