鉛。核廃棄物。原子力発電を使って生きた証として。激しい放射と論争の後。人間の命の放射と共に。後に残った厄介な放射性同位体。柔らかく無様な金属は。鈍い光と共に。我々から嫌われて尚。地球に居続ける。太陽の藻屑に放っちまえよ。ある人はそういう。ビスマスみたいにならなかったお前が悪い。まるでガミガミと生き永らえた老人みたいだ。20世紀にバリバリ働いてた頃はもてはやされた。金魚の糞(フン)みたいに政治家も輩も付いて回った。要はそういう生き物の塊だった。力があって後処理に困る嫌われた。俺を使ったんだ。悲しいもんだよな。人をブルドーザーかカーのように。楯にして人は進んできた。用が済めば「汚らしいオジサン」だ。悲しい天使が手に取って。そんな夢を見ている。生きる方法を探したいんだ。放射性の核廃棄物。目を逸らされて。放射性と放射性を合わせれば放射性がなくなるのではないか。そういった放射性を作り出せばいいのではないか。際限なく分裂していくのか。そうなったらまたエネルギーを取り出せばいい。質量がなくなるまで。果たしてそれは遅い分裂なのか。それならば「家庭」で用いるような電力にできないか。放射性とは人間本来の形なのではないか。少なくとも世界の電力の30%は「放射性」だ。「放射し尽くす」という方向性はないのか。激論を交わす老人たちを思い浮かべていた。彼等は論争をしたいのだ。その手答えがほしいだけなのだ。それが世の中のためになると託けて。それは「地球場」というよりも欲しい「人間場」であるように思う。「人間同士が主義主張を通し合い」それはもちろん「男女関係であったり」「欲しい状態を手に入れること」こういった激論を交わすだけの「人間的な代数場」それは「激しい熱を帯びていて」恰も「放射性であるかのように」振る舞う。その通り我々は30%は放射性でできている。残りの内の30%は植物性化石燃料の石炭で、残りの30%は動物性化石燃料の石油だ。この60%の化石燃料による我々の部分は「溜めた」あるいは「溜まっていたものを掘り当てて」使うという「社会とプライベートの分離」という恰もあると思われていた「精神面という機械的な面」があると仮定することによって成り立っていた。これは次第に「ネットとリアル」という「社会とプライベート」から「2分」したものに変換され、次第にその境界線はなくなり、結局「精神面という仮想的な面はなく、あるのは家のドアだけだ」という「プライベートと金」という概念の喪失により、持続可能なものではなくなってきている。再生可能なエネルギーへの変換は、この「掘り当てて使うもの」の処理を真っ当な天に還すことに他ならない。我々が目を逸らして、誰かに「凝縮され尽くし、コンパクトにはなったが、危険性が甚だ大きい廃棄物、環境処理」の責任を押し付け合っていては、その「逃げた命」が「核廃棄物、あるいは環境廃棄物そのもの」であるように思う。廃棄物を処理する核物理は「地球、宇宙、環境、人間、経済、心理規模」だ。核は元々「心理規模のものであった」といえよう。仕事をしてハラスメントをすることは原子力発電をして核廃棄物を処理しないことに等しい。持続可能でも再生エネルギーでもない。やればやるほど。これからは共産という軸はなくなり、「みんな」と「自分」のやりとりになっていくと思う。「髪を切れ」じゃないだろう?「オジイの熱い息の吐け口」がほしいんだろう?まさに「戦線」のサーフィスがここにあるのである。「顔面部」に。「鼻フックを突っ込みたい」それ以外に何の言い分があるというのか。無様に生きてきた男たちの吐け口以外に。「髪を切れ。できれば鼻フックを掛けさせて」って?とある上司は「稼ぎたかったら言ってくりょ」と言ったが要はそういうことだろう。「金はともかく」ハラスメントは返り討ちにさせていただく。