宇宙光線(参考文献)

光線に照らされて我等どう生きながらえる。なにもない空間と光線。なにもないところから何かを生み出せるとして。障壁がなくてはならない。わたしたちはよくそれを観察する。いかにして光線は媒体としてありえるのか。フォトニクスといえば闇に囲まれた感じのする。そんなやさしいもんじゃない。光の束であるのだ。地球はヴァンアレン帯、大気の帯に守られている。これを研究していくのは。おやおや。俺がまさに一番最初に宇宙際タイヒミュラー理論を応用した例だ。ただ放爆的な放射を。これはガンマ線バーストを想定しているが、太陽のフレアだって11年に1度、直撃すれば同じようなシミュレーションができるかもしれない。つまり太陽フレアを研究することはガンマ線バーストを研究することに非常に近い。基本的にはボルツマン方程式だろう。輻射輸送方程式だ。もはや俺は参考書を買って基礎研究をする段階にないのか。「太陽フレア」で論文を調べるしかないのか。知識をすべて吸収してから研究を始めるでも遅すぎる。自分が考えたことがすでに世に出ているかもしれないがそれが何だってゆうのだ。それを調べる労力にも価値があるのか?参考文献をいくつ挙げたって。ほんとうにそれが必要なの?参考文献の列挙。例えばこれも常識になっているし、私自身も参考文献の項目を見るのが好きだ。だが、それが関連がなく、ただ「好き」という理由で挙げているでもよかろう。あるいはお勧めしたくないことだってあるかもしれない。ふつうはそうだ。人は自分の情報のソースを明かさないのだ。だけど人はソースを知りたがる。ここがもしや人生の有様そのものなのでは?「参考文献が留まるところの自分」であるのだ。ルーツがなければなんの個性も認められないみたいに。自分はわりと見るが。ルーツなどいらないのだ。個性的な論文であればあるほど参考文献などは見ない。「私の参考文献」も是非知りたいと思う。その人になりたいように。骨までしゃぶりたいんだ。論文業界がこのようであるのだから。権威ある論文などありようがない。ご自分で価値判断基準を探すしかない。