突然言いたいことが溢れてびっくりする。誰にも奪われない声でこの街を見たなら。

F#突然言いたいことが溢れてびっくりD#mする。B年甲斐もなく叫んでるオヤジを2mの距離で眺めていA#る。D#m大人っぽいバラードがふBつうだろ?D#m真っ直ぐなんだからD#しょうがない。G#mきっとこの声はずっと真っ直ぐでありたG#m7^-5いと。C#m2mの距離なんて自分が見えないC#7ように。F#m帰ってこないE三度見を。Dバラードが口に籠C#って腐っていF#mく。汚Eい言葉に。Dどこかから眺めた価C#値観に。D結局自分をEみてる今の自分にも腹F#mが立つ。B君のどうしょうもないC#声を奪って。F#返さなきゃ。G#好きになるように。A#m好きD#mだ。A#m恋せD#mよ。G#m頭の中までA#m入りこまないD#mように。G#m誰にも奪われないA#m声でG#m7^-5この街を見C#7たなF#ら。

そして、今から100年前の1903年12月17日、アメリカのノースカロライナ州ティーホークという町でライト兄弟の弟オービルが操縦するフライヤー号が12秒間、36mの距離を飛行して、動力飛行に初めて成功しました。 その後、人類は、大空だけでなく宇宙へも挑戦をおこないました。1903年12月17日。人間が初めて空を飛んだってすごくない?

フィル・スコット氏によると、ライト兄弟がこの世に生まれる何十年も前、ケイリー卿はすでに現在の飛行機の原型の大まかな構想を得ていたそうだ。鳥を観察して、空中飛行のために必要な力を特定したケイリー卿は、そよ風が吹く1853年のある日、簡単な作りのグライダーに御者を乗せた。御者は丘を滑り降り、空気よりも比重の重い機械で空を飛んだ初めての人間となった。米スミソニアン航空宇宙博物館の航空部長を務めるピーター・ジャカブ氏は、「ケイリー卿が現れる以前には、本当に重要な出来事は何もなかった。飛行機が現実のものになっていく過程で、画期的な変化をもたらした重要人物だ」と語っている。米サンディエゴ航空宇宙博物館の副館長、ブルース・ブリークリー氏も「ケイリー卿は近代航空学の父だ」と話す。

ケイリー卿以前に飛行装置の開発に取り組んでいた技術者や、これで一山当てようとする人たちは、人間が空を飛ぶには鳥のような動きをしなければならない、つまり飛び上がるためには翼を羽ばたかせなければならないと考えていた。スコット氏によると、この間違いに最初に気づいたのがケイリー卿だったという。ジョージ・ケイリー卿。

「ケイリー卿は信じられないような発想の転換を成し遂げた。今でこそ基本的なことに思えるが、ねじ釘やテコと同じように、これもまた世界を変える発想の1つになった」とスコット氏は述べる。

ケイリー卿は、カモメを観察するうちに以下の点に気づいた。まず、鳥が空中に浮いているためには、羽ばたきだけでなく、翼の角度と形が大切だということ。また、鳥のはばたき――現在の飛行機ではジェット・エンジンなど――が生み出す、前へ推し進めようとする力――推力、スラスト――は、上に押し上げようとする力――揚力――とは全く別物だということ。さらに、これらの力がうまく組み合わさった時にのみ、抗力に逆らい、機体を空中に保つことができるということだ。

1799年、26歳だったケイリー卿は、25セント硬貨ほどの大きさの銀の板の片面に、飛行に必要な力の関係図を刻んだ。この板のもう片方の面には、ジャカブ氏が「現代の飛行機の着想を永遠に刻み込んだ」と称えるスケッチ画が刻まれている。図に描かれた主翼はこの胴体から斜め上方向に固定されていて、羽ばたくことはない。翼の下にあるボート型のコックピットには1組のオールがついていて、パイロットは空中でこのオールを漕いで前に進む。また、飛行機を上下、左右に方向転換させるために十字型の尾翼がついていた。

1909年にはウィルバー・ライトが、この飛行機の設計について、「飛行の科学を、それまで決して到達されなかっただけでなく、この設計図が書かれてからこれまでの1世紀の間にもほとんど並ぶ研究がないほどの領域にまで導いた」と評している。

しかし、飛行に必要な力に関する自らの発見を一連の雑誌記事として1809年(図)と1810年に発表したのち、ケイリー卿は飛行に関する研究を中止し、それから30年近くもの間、いっさい手を出そうとしなかった。ブロンプトンで6代目の准男爵だったケイリー卿は、ヨークシャー地方北東部のパラダイスという地所で育った。幼いころから多様なものに興味を示し、好奇心の向かう先は一見ささいな事柄だった。20代の時には、親指の爪の成長を調べ、100日で約1.27センチという観察記録を残した。また、30代で考案したテンションホイール[スポークで車軸と車輪部分が結ばれたホイール]は、今でも自転車に使われている。40代になると現在戦車に使われているキャタピラの原型を発案し、特許を取った。50代の時には、自分の領地に住む小作人の息子のために義手を作った。さらには国会議員を務めたり、地元の農地に新しい排水システムを設けたこともあった。また、1830年にごく初期の列車事故を目撃したことを契機に、鉄道の安全向上のためにも尽力するようになった。ケイリー卿が再び空に目を向けるきっかけとなったのは、1人の不運な航空起業家との出会いだった。その起業家、ウィリアム・ヘンソンは1840年代初頭、自らが設立する予定だった『航空輸送社』に資金援助してくれる投資家を探していた。ヘンソンは蒸気機関を使って動く、帆布製の翼が付いた飛行装置の特許を取得していた。この装置を使って手紙や物資や小包を空輸するというのが事業の概要だった。航空史家のスコット氏によると、ヘンソンは事業を立ち上げて軌道に乗せるために3500ドルが必要だと割り出し、ケイリー卿に出資を依頼したという。

ケイリー卿は以前から、飛行機が継続的に安定して飛行するには、強力なエンジンで推進力を与えなければならないと考えていた。そのために熱した空気や火薬を使ったエンジンを作ろうと試みたが、どれもうまくいかなかった。そのため、ケイリー卿にはヘンソンの飛行機も失敗に終わるとわかっていた。

 
だが、スコット氏によると、ヘンソンに刺激され、ケイリー卿はふたたび飛行機の研究に取り組むようになったという。エンジンの問題はまだ解決していないとわかっていたので、ケイリー卿はグライダーに目を向けた。1849年、ケイリー卿の「制御可能なパラシュート」――パイロットを乗せるケージがついた3枚翼の機械――は、ケイリー卿の使用人の10歳の息子を乗せて、数メートルだが空中を飛んだ。1853年には、この「パラシュート」は成人男性が乗れるグライダー(図)になっていた。領地の丘を滑り降りる直前、ケイリー卿は御者のジョン・アップルビーに、飛び乗るよう命じた。地元の若者たちが引っ張ると、グライダーは徐々に速度を増しながら丘を降りていき、やがてその機体が宙に浮いた。79歳のケイリー卿に後を追われつつ、グライダーはブランプトン渓谷を横切って274メートル飛んだ、とスコット氏は書いている。

アップルビーの短い旅は、空気より比重が重い機械に大人が乗って成功した初めての飛行だった。しかし、アップルビーはこの偉業にちっとも感動しなかった。語り伝えられるところでは、アップルビーはその場で職を辞したいと申し出たという。

アップルビーは、風変わりで頭のいい主人に向かってこう言ったといわれる。「私の仕事は馬車を操ることで、飛ぶことではありません」

1770年 頃 ごろ 、フランスのキュニョーがつくった自動車が、世界で最初の自動車といわれています。 現在、自動車のほとんどはガソリンや電気などで走りますが、キュニョーがつくった自動車は、 蒸気 じょうき で走る「 蒸気 じょうき 自動車」でした。

世界初の自動車が誕生したのは1769年です。フランスの軍事技術者ニコラ・ジョセフ・キュニョーが蒸気で走る自動車を発明しました。

この絵は走行実験中にハンドルを切り損ねて壁に激突してしまったクルマで、世界初の交通事故を起こした瞬間です。

世界初のガソリン車で、ベンツ1号とも言われているのが「ベンツ・パテント・モートル・ヴァーゲン」です。1886年に作られたベンツ1号は、棒ハンドルで前輪を操向し時速15kmの走行が可能でした。

ベンツ1号が1887年の1月29日に特許を取得したことから、この日は世界初の「ガソリンを動力とする車両」に対する特許交付日であり、また世界初の乗用車が誕生した日とされています。

電気自動車の歴史はガソリン車よりも古く、電池は1777年、モーターは1823年に発明されていました。1873年にはイギリスで電気式四輪のトラックが実用化された記録が残っています。

また、史上初の時速100㎞超えを達成したのも電気自動車でした。

1900年のパリ万国博覧会に世界初のハイブリッドカーであるローナーポルシェ「Semper Vivus」がポルシェの創始者であるフェルディナンド・ポルシェにより出展されました。

このクルマは、通常のエンジンに加えてホイールハブに電気モーターを搭載していたそうで、100年以上も前からハイブリッドカーは存在していました。

その後、ワットが新方式の蒸気機関を開発するなどして技術が向上し、徐々に馬車の牙城を崩していく。一方で、既得権を守ろうとする馬車業者などからの抵抗は大きく、イギリスで蒸気自動車を規制する“赤旗法”が制定されるなどの動きもあった。ゴットリーブ・ダイムラー(左)とカール・ベンツ(右)

現在、主流となっているガソリン自動車が誕生するのは、1885~1886年。日本は明治時代になっている。
蒸気自動車、電気自動車が混在していたころに、ドイツ人のゴットリープ・ダイムラーは4ストロークエンジンを開発し、1885年に木製の二輪車にエンジンを載せて試走に成功、翌1886年に四輪車を開発している。同じ1886年、同じくドイツ人のカール・ベンツがガソリンエンジンの三輪車を完成させて実際に販売した。

その後、ダイムラーガソリンエンジンの製造ライセンスを持っていたフランスのパナール・エ・ルヴァソール社は、世界で初めて、いわゆる最先端に置かれたエンジンの後方に、クラッチトランスミッションを縦一列に配し、デフ機構を介して後輪を駆動させるFR方式を考案し、1891年にこの方式を採用した車両、パナール・ルヴァソールを市販した。このクルマの機構は「システム・パナール」と呼ばれており、現在の自動車技術の基礎を築いた。

また、この頃、“空気入りのタイヤ”が発明されたり(以前はソリッドタイヤであった)、ハンドルが現在使われている“円型”のもの(以前は棒状の舵をとるものしかなかった)が発明され、乗り心地や操作性が改善されている。
1890年の初期のパナール・ルヴァソールには、まだ、装着されていなかったが、1900年頃のものは、空気入りタイヤ、円型のステアリングが装着されている。

世界初の自動車レースもこの頃に開かれており、1895年、 フランス、パリとボルドーを往復するコースで22台の自動車がスピードを競った。参加車のうち15台がガソリン自動車で、蒸気自動車が6台、電気自動車が1台だった。完走したクルマ9台のうち8台がガソリン車であり、ガソリン車の優位性が示されたレースでもあった。1着はガソリン車のパナール・ルヴァソールであった。

1900年代初頭は、蒸気自動車がまだ主流であった。そんな中、フランスのド・ディオン・ブートンは、1900年の1月から翌年の4月にかけて1500台のガソリン自動車を販売。ガソリン自動車の生産・販売で世界をリードしたのは、フランスだった。

その後すぐ、アメリカが自動車産業界で圧倒的な存在感を示すようになる。ヨーロッパでは貴族の趣味としてスタートした自動車だが、広大な国土を持つアメリカでは広く大衆が馬車に代わる移動手段を求めた。1901年に登場したオールズモビル・カーブドダッシュは、同年に425台、翌年には2500台が製造され、アメリカ初の量産車となった。

自動車大衆化の象徴が、1908年に登場したT型フォードである。アイルランド移民2世のアメリカ人のヘンリー・フォード1903年フォード・モーターを設立、“大衆のためにクルマをつくる”ことを志し、開発されたクルマである。
簡素な構造で、運転も容易なこのクルマは、初年度に1万台が製造された。1913年には史上初のコンベヤラインが完成し、一日に1000台が生産されることになる。生産が終了した1927年までに、総生産台数は1500万7033台に達した。

自動車の大衆化の一助となったことがある。それは、1912年キャデラックに初めて採用されたセルフ・スターターの発明である。今では、エンジンスタートボタンを押しさえすれば簡単にエンジンはかかるが、昔は重いクランクハンドルを力いっぱいに回さなければならなず、女性や老人ではエンジン始動が難しかった。男性が操作してもハンドルが逆回転してしまうこともあり、これがもとで腕の骨折や、死亡してしまう事例もあったほどである。

自動車の大衆化が進むとともに、さまざまな高級車も出現した。1906年、イギリスのロールス・ロイス・シルバーゴーストは50馬力の6気筒エンジンを搭載し、静粛性とスムーズさで世界的な名声を確立した。ほかにもヨーロッパのブガッティやイスパノ・スイザ、アメリカのキャデラックやデューセンバーグなどの 極めて高価な高級車が登場し、貴族や富豪が競って手に入れた。

日本では、1898年(明治31年)に初めて、海外から自動車(パナール・ルヴァソール)が持ち込まれる。
その後、日本でも、自動車製造の試みが始まっていった。1904年(明治37年)には岡山市で電機工場を営んでいた山羽虎夫が、国産車第1号とされる山羽式蒸気自動車を完成させた。このクルマは乗合自動車(バス)としての使用を目的に造られたが、ソリッドタイヤがリムから外れるというトラブルに悩まされ続け、倉庫に放置されるままとなり、乗合自動車の計画は実現せずに終わった。

1907年(明治40年)、純国産初のガソリン車で、また国産で初めて実用化されたガソリン自動車が誕生した。“自動車の宮さま”と言われた有栖川宮威仁親王殿下が、自動車の輸入・修理を行うオートモビル商会を設立した吉田真太郎と機械技術者の内山駒之助に要請し、10台ほどのガソリン車自動車がつくられた。
当時の人々に、このクルマがガタクリ、ガタクリ走ることから“タクリー号”と呼ばれた。

その後、明治末期から大正時代にかけて、自動車の国産化が数多く試みられたが、当時の日本の工業技術は、 まだ未熟であったため、国産化は成功しなかった。
このような試みのなかで、のちの自動車工業の確立に少なからず影響を及ぼしたのが快進社と白楊社であった。

1911年には快進社自動車工場が設立され、3年後の1914年(大正3年)年に乗用車の第1号「ダット」を完成した。

日本初の本格的な自動車生産は、白楊社のオートモ号が最初で、1925年に生産を開始し、230台が製造された。

しかし、欧米との技術の差はまだまだ埋めがたいものがあった。GMとフォードが国内でノックダウン生産(製造国が主要部品を輸出し、現地で生産すること)を始めると、市場は寡占状態になり、快進社、白楊社ともに解散してしまう。

1930年代(昭和)に入り、1932年(昭和7年)に日産自動車の前身となる“ダットサン商会”が設立され、翌1933年(昭和8年)にはトヨタ自動車の前身となる“豊田自動織機製作所自動車部”が設立、現在の日産自動車トヨタ自動車が誕生する。

快進社は巡り巡って、ダットサン商会に引き継がれ、一方、白楊社の主要メンバーは豊田自動織機製作所自動車部に入社している。

その後、トヨダAA型やダットサン14型などの意欲的な国産乗用車生産の試みはあったが、戦前の日本車はトラックが中心だった。第二次世界大戦に向け、戦時体制が進むと、軍需用のトラックの製造が開始され、乗用車の開発は中断を余儀なくされることとなった。

戦時体制時、ドイツではアドルフ・ヒットラーが大衆に対する人気取り政策として、“国民車構想”を提唱し、1938年にドイツの国民車として、フォルクスワーゲン・ビートルが誕生する。このクルマはポルシェ社の創設者フェルディナント・ポルシェの手により開発された。

1939年に第二次世界大戦が開戦されたため、量産化直前で国民車構想は頓挫し、代わりに軍事用車両のキューベルワーゲンが生産された。

戦後にフォルクスワーゲン・ビートルは量産化が開始されると、長期にわたり世界中で販売され、累計2000万台以上の生産台数を達成し、ドイツの国民車というだけでなく、世界的な大衆車となった。
独裁者、戦争犯罪者として悪名高いヒットラーであるが、この国民車構想とアウトバーンの建設は、彼の功績として評価されている。

一方、ドイツのポーランド侵攻時のキューベルワーゲンの活躍に注目したアメリカ軍は1941年に小型四輪駆動車Jeep(ジープ)を開発し、実戦に投入した。連合国の軍用車両として60万台ものジープが生産、世界中の戦場へと散っていった。
また、戦後は、世界中でノックダウン生産され、膨大な数の派出型ジープが誕生している。

この戦時体制の中、世界中で軍需用の車両の生産が優先され、乗用車の開発はストップした状態であった。