尚輝の機械

現代の機械は『非常に弱い力』を使って作動するものであるが、たとえば量子力学を使って。これを『弱い弱い』力へと作動原理を進めていくと、最終的には『グラビトン』の『インフラトン』の『カシミールエネルギー』のように『プランクスケール』『ħ』かそれ以上に『幾何力』において『非常に弱い力』で作動するような『機械』ができあがる。これはもはや私たちが『脳波で発するようなエネルギー』あるいは『非常に小さく体を動かす』ようなエネルギーでさえ発動するような『機械』となる。これは《このスケールまでいくと》その機械はもはや《他人にはつくれない》ものになっているのだ。なぜかというと《非常に弱い作動《入力》》は《機械を発動させたい本人》《固有のもの》となっており、その脳波・非常に小さな体の動きは『他人には再現できないもの』になっているからだ。このスケールまでいくともはや『他人の機械を私が作ってあげる』ことはできないし、他人の気持ちを慮ろうとしてその機械を『作ってあげようとする』ことさえ「このエネルギースケール」において干渉が起こるのだ。このように『私に触れようとしたものをハゲ散らかす』『機械』は『私によってのみ』作られる『部分が非常に多い』かあるいは『ほぼ全部が私によって作られる』かあるいは『そのすべては私によって作られる』のかもしれない。重破揺の機械(えはようのきかい)といっていいが、人類がその危機に立ち向かい、いまある危機、地震津波などに立ち向かうには、『単純に大きなエネルギー』に立ち向かうというスケールもあることも忘れてはいけない。だがこの重破揺の機械は我々世界市民(動物も含めた)を新たなエネルギースケールへと導く新しいエネルギースケールへの考え方であると私は『信じて』いる。地震津波を無視して作られた現存以前の都市はある意味においてこの重破揺を含まないエネルギーの使用意図となっている。ある意味個性を無視して作られた、進め進めといって人が機械のようにその体と時間を費やしてきたその作りだ。これからはそのようでは我々のなにも守ることはできないし、『小さいスケール』と『大きいスケール』を区別することもできない。我々はなにものになろうとしているのか。そうだ。我々は《我々自身》になろうとしているのだ。他人から《出力》されたものを排してやまない。そのようでいたことがいまの女性にはあったか。