大規模災害時のまつげエクステサロン

女性は自分の化粧品をもっている。災害時に、このような機能が維持されないと、どうでもいい(死ぬときは死ぬ)と思ってしまうらしい。つまり『死ぬ』時期を自分で決めることができないのだ。ここで命の分断が行われてしまうのだ。善意が途絶えてしまうといっていい。このような災害キッドを維持することが非常に重要である。プライバシーが維持されないのも大変なことである。むしろ非常に侵されるタイミングにある。女性同士じゃないと助け合えないこともあるし、私にできるのはここまでかと思うこともある。内在的なインスレーターとして生まれ内在的なインスレーターとしてむしろもっているフラクタルインスレーターのそのカーブそのものに内在的な可能性を秘めている。交換される要素も非常に内在的なものとなるのだ。化粧品も自分で作りたいものであるが。お金がね。お金がまったくない。つまり声が。まったくでない。すくなくとも詰所の多目的トイレだけは叶えたい。ただ長々と化粧しているわけにもいかないのだ。ここから団員の意識が波及していくことを望む。で。トイレをどうするか?簡易式トイレに鏡はない。列も作っている。ひとりに一トイレというわけにもいかない。鏡をみるその瞬間だけ一人になることはできないか。5分。ぐらいでいいのではないか。簡易式のドレッサーの列などどうであろうか。いやこれはトイレとごまかしているところがいいのではないか。自分と向き合うのはこころの安定にも必要だ。つまりはレビューをみるみたいに。自分のこころの安定を数値化できないか。なにがたりないのか。1,2,3とレビューして大衆の救出に向かう。鏡とそのあいだに世界はあるのではないか。つまりミラーデュアリティーには意味がない。ミラーデュアリティーと決定されたもののあいだには。あなたでもなければわたしでもない。ただの機械作業にすぎない。医師といって弁護士といって「師」「士」のつく仕事にはなんらかの目的があってそれを達成しようとしている。まちの「市」にあってもそうだ。「医者」といって「者」もそうだろう。これらのことが作用としてその人に加えるものが「半分をこえること」はない。どの程度私はレビューをみたいのか。フラクタルインスレーターとしてはそれが「害意が失われるまで」であろう。もちろん『害意』は自分が損するほどにやりとりしているのだ。ただいくらでも「し」を「手」で。あまりにも意識の少ない「手」でもって他者を害する無限性をもっていられないだろう。それは機械に支配された世界である。意識がない。身(体)でしかない。そのための世界を築き上げてふと外に出たとき他者を大幅に害していると錯覚されるに違いない。つまり我々は人のこころに触れたくて目の前にあるものを掘り下げているのではないか。それは『まだ見ぬひとのこころ』である。我々はそのこころをまだみたことがない。誰にでもそれを追い求める権利はありそうだ。我々が手助けできるのは団員のこういった意識でしかない。急激に環境が変わって非常に団員には苦労をかけている。しかし地域社会がなくてはなにがいったい追い求めるものであろうかと。自分の欲望を追い求める。しかしこれは半分をこえることができないものと様変わりした。団員としてはだ。私人としての団員もクロスオーバーしている。団員としての作用は半分をこえない。むしろ金銭的なあやまちを犯さないことが団員に求められた消防団員の作用であるようにおもうのだ。いまの時代にあっては。これを地域社会とてをたずさえて築き上げていくこと。ねがわくば第三者の介在なくしてだが。これに関しては市政いったいの介在が加わることもあるであろう。国。県。市町村。とあってこれに「地域」が。みすごされてきた『地域』が加わって。「国・県・市町村・地域」と一体のものであることが見直されてくる時期であるだろう。国も国際も宇宙際もこれらの「弱い力」に徹底的に摂動されていることがわかるだろう。