ドルツの正体一明

捻じ伏せたい、とまではいかないが、「捻り伏せたい」と思うのは私だけであろうか。最終的にワントーン明るくなる。それが『パニック』だと私は思うのだ。植物も枯れる光度。最終的に何の加工もいらなくなる。だが、それが『ものを理解する』ことだと思うのだ。最終的に光はいらないが、いっとき、ものを理解するためにふたを開ける。そんな光だ。最後にそれを撚り戻す、そんな作業をしたい、と思う。一明、すなわちドルツだということだ。ドアを開けられて、ビクッとする。そんな作用だといえよう。それが一明であり、よる(撚る、夜)が来ない、まではデルタ関数の作用も同じである、といえよう。なんのために解明するのか。それは安定した平穏なよるのため。それはそして、人それぞれ「よるは干渉している」といえる。『秘密を持ち合う』そんなよるの維持の仕方もあるだろう。連鎖していく火消しのように、すべての行為は一明だ、とでもいえる。そうなのだ、いまの世の中は安定しているようにみえて、連鎖したら一明なのだ。安定したよるはこない。パニック。まったくだろう。それだけ知られてこまる、のが人であり、まったくだれのよるを犠牲にしているのかは、わからない。尚輝といって、「たいして小さいもの」かもしれない。自分に明るくよりそう子供のように。これも一明であり、尚輝だ。願わくば尚輝と願うかもしれない。子供が一明として育っているなら、それは親子で立派なトレードが成り立っているだろう。そのほうが楽だ、と収束する。ゲームだけ与えておけばいい、とか。自分の人生も収束するにちがいない。親には一明だけ与えておけばいいと。どのようにしてよるを手に入れるか。みえているよるはよるでないかもしれない。なにか呆れ顔で子供をみる親。裏切りの一線は自分の側にある。と優越感に浸るかもしれない。まあ、そうなのだ。裏切りの一線はあなたにある、のか。よるはわたしとあなたと、それとそれとそれと、いつでもつくれるものであって、そうでもない、とすればそれはあなたの側にあるんだろう。弁護士は被告人を守るものだ。それは最後の最後まで「一明」であるかもしれない。それはパニックだ。最後の手段として。パニックが手段なのである。パニクっています。それは検察側の敗北なのかもしれない。金が絡んでいるものではない。よるが絡んでいるのだ。これがドルツの正体としての一明である。よるを一枚仕込んだ。二枚三枚は仕込んでいるかもしれない。多いほうが検察側はパニクるだろう。火事場泥棒としての見せ場。ドルツとよるを。最後は一明にかわる。思春期の春そんなよるを思わせる。バスのブレーキにはこのフェードによるドルツの共鳴がからんで緩く大きな波長にかわることが絡んでいるのではないか。波長がバスの自重を飲み込んでしまうのである。まったく撚れたソリトンフェード現象なのではないか。フェード現象にわれわれは参っているのではないか。一方向的に循環(流れ)るソリトン、振り返ればドルツ、なのではないか。われわれは最高到達点を準備できないのではないか。パニックを順方向に。あれにもなりたい、これにもなりたい、ぜんぶあわせてドルツが肥大化している、われわれが自然とできあがったものは「その準備」ではないはずだ。われわれの『予知』はパニックを撚るように袷て、その実、パニックを根拠としていることをみないようにしている。ならば綱渡りのようにわれわれの実体は移動している。分裂障害を起こしているのはわれわれの息で、それに撚りを戻すのに実体が不足しているのだ。われわれの医療と予知は。口でいえるほどそれが足りているものではない。弁護士に医療のよちがあるなら。それを準備するなら着地点を決めることだが、働きかけによって着地点は常に変動してしまうのだ。職場で箱根駅伝で賭けをやっているのがもうパワハラパワハラに巻き込んでいる、ということだ。