フェルマー素数

フェルマー素数といえば定規とコンパスで書ける多角形の定義であるが、これを知ることができてなにか意味があるのか、と思ってしまった。われわれのレオロジーも、目の前にある布が折れたことと、長距離の応力場の相互作用をモデル化するのは困難であるが、仮に私が考えたフェルマー素数の多角形が直径10kmほどだとすると、誰かの考えた同じフェルマー素数の多角形が直径2mmほどのものだったとして、果たしてそれが私の考えた多角形の同心円上の「中」に含まれるのか。私の考えた多角形と、誰かの考えた多角形は同じものではないか。線が交わるとか交わらないとか、考えだせば同心円上である必要があるが、デザインとしては同じものである。誰かのフェルマー素数の多角形が、永遠と同心円上に広がっているとして。だが、このフェルマー素数が、存在するか、しないかは決して意味のないものではなく、この銀河で製造できるマシンの性能の限界を決めることができる。折れた布が、単に情報を捨てただけでなく、責任をもって折られたものであるか自身に作成できるマシンの限界と、捨てていい情報の捨て方を推し量ることができる。地球との付き合っていき方とか。おまえがおれに寄生しているからだよ。音を奪われたとか奪われなかったとか。変なことを考えたとか考えなかったとか。すべてがマフィアの生き方だ。気がつけばボリューミーに耳元で話しているとか。見ようと思った着地点を誤ったとか。いくつか見える画像が同心円上で像を結ばない。乾いた月の大地とか。火星の大地とかいう音だとか。それらは互いに距離があって、混ざり合わさることを望まない誰かの感情に似ている。運動神経のなさがない。そんなだれかが同心円上をだれかと描くか。誰一人同じ運動神経はないようだ。が、だれかの声にフェードを起こす。私の声も目も違って。だが、違うとだれを責められようか。貯金は全然ないわ。だれかが食べもので限界を起こしていた。言うとか言わないとか、だれかのこえも。人に手を加えるのが難しい。転位間の相互作用が大きく、モデル化するのが難しい。長距離の応力場が伴う。かわいい状態がどういう状態なのかわからない。