裁判所は基本的には聞きたくない音(サウンド)をきかされる

まかりなりにもそこは人と人とが争っている音である。人と人との争いは少ないほうがいい。法に従えというが、法は年代を経て変わっていくもの。罷り通っていたものが通らなくなっていくもの。環境による法がさいたるものだろう。いままでどおりのことをやっていたのではサステイナブルなものとはならないのだ。人も地球も。ましてや片一方の人間は悪魔の証明といわれるような嘘の証明をこころみているのだ。心地よい音であるはずがない。女子にアタックするヤカラのプロポーズもこのようであるかもしれない。音(サウンド)を多用して『これはこうだよ』といったものに、つまりはおれの顔をみろといって首を45°傾けたものに、いいえちがいますといって巻き起こる力の匙加減がこじれるかこじれないかで音(サウンド)が倍になることもある。正しく争わないことはこのこじれを下から覗き込むことを肯定することになる。簡潔さを求めたくなるだろう。女子としての簡潔さは、生活したいと発散したいというところか。なんかを話しかけるということは、なんかの言葉をその人のあたまが取り込むということだ。それができない、と思ったときに世界全部でその人を包む(語りかける)ということではないだろうか。嘘いってるやつが「やめろよ」というのは、歪んだ世界を認めることにほかならない。