D-braneとホッジシアター

我々が数学を研究するとき、それはある種の壁を超えた集中力を発揮しているように思える。我々が基盤を作る基礎となる電磁工学を勉強しているときは、それほど気乗りがしない。電磁工学の基盤となっている金属の電磁場は素直に相対性理論に従う工学的には基礎的な場である。だが、我々の体は純粋に金属でできた場を嫌っているように思える。当然といえば当然だが、我々の体自体は、過剰な金属を摂取することはできない。だが、我々の思考において展開される数学は重金属を生み出すためのコホモロジーを考えることを、金属を身の周りに摂取するほど嫌わないように思える。これがある種の我々が物理に先じて数学を発展させてきた理由であるように思える。望月新一氏が創始した宇宙際タイヒミュラー理論も、ホッジシアターという概念はエドワードウィッテン超弦論でいうところの[D-brane]一枚一枚に相当する概念であるといえる。単純に金属といったときと、化石燃料に相当するような低級エネルギー消費といった概念は、我々の環境に対する感覚と伴って、20世紀然とした1次導電あるいは1次熱消費といった使い方に、ある種の[生命の存続性の不可能さ]を感じているのではないだろうか。それはある種の[痛みを突きつけあって均衡を保つ]ような、1次消費の犠牲となってきた産業革命以降の、あるいは科学革命以降の世代が、科学そのものが[生命はそうなってはいない]と明るみになってきているところではないだろうか。我々自身が、つまりは[優秀なホッジフィルター]でなければ、これから先の世は見えないといっているようである。低級な量産型の1次フィルターの重ね合わせでは[なにもみえない]ということだ。生命を消費するばかりで。生命をそまつに扱って1次導電あるいは1次熱消費を作り出してはいけないのだ。そういったものは純粋に娯楽としての浪費で人の感性の残された野生の部分を見る(ハーレーのバイクを見て「鉄の馬」だと思うように)ための、真に個人的な営みであるのだ。人はお金を出してこれを買うようになる。おかしなことだが環境の破壊だ。だが我々の個人の感性や感覚や命の存続と人々の拮抗ではある。真に個人の願望がそのような環境を破壊する願望をもっていることはおかしなことである。解決できるのはまた個人の(地球)環境作出能力であるのだ。必ずしも全体として要領がいいとは限らない。逆さまにかまえた畑を誰が要領がいいと思うだろう?金属自体が重力としての見方しかできないんじゃないか?重力は光の侵入を拒んでいるのではないか?それは少しの状態であって重力はすぐに光に絡め取られる。それが観察の難しさではないか?相対論的にみれば重力は幾何的な歪みとなって現れる。それは電磁気学的にみた重力であって、そもそも重力が相対論的に(電磁気学的に)内包されているかは、一向にわかっていない。重力のほうこそ、そもそも相対論を内包すべきものであって、少なくとも光と重力は等価以上の交換関係にある。わかればわかるほど我々は重力をベースに計算をはじめなくてはいけないことに気づくはずだ。我々が計算してきた部分もどれだけが金属ベース(相対論ベース)の思考に基づくべきものかも改めて割合を求めていかなくてはならない。世界を反転させてみているものに、我々は改めてブラックホールがあのように中身を伴ってあらわれるものなのか、見方を変える必要がある。重力波でもう一度ブラックホールをみてみるのだ。こちらから改めて重力波をよせてみる。