稲穂友達

地球にしがみついた稲を無下に摘み取るほど無慈悲なものじゃない。眠る赤ん坊のようなそれの幸せな一生を考えたことはあるか?月に照らされ。太陽に照らされ。素敵な孫たちに囲まれるみたいな。我々が命をつなぐほど飢えたその一生懸命により添う母体(地球)を。引き剥がせるほどその命の切り時を知っているか。与えるように揺れたその稲穂を。切って大地に横たえて。命は生まれる。その指で稲穂に触れてみて。友達といえるだろうか。親かもしれないし、我々がその愛情を知ることはないかもしれない。アレルギーの要素は我々を許していないかもしれない。命を断つという要素は、必ずしも我々と馴れ合いを望んでいないし、ともにその強さをナメることがあってはならない。我々を嫌っていないなどということもないのだ。これは生きるものなら人とのあいだだけでなく、知ったことだろう。われわれはただ彼らに甘んじていただけではない。もちろん「やられて」もいたのだ。生命とは。その力さえ感じられるものでなければならない。ある意味霊力だといってもいい。われわれを殺そうとしている。それは間違いなくある。動物も。もし我々が立ってないものであれば、彼らの霊力もただ我々を殺すだけのものにはならないだろう。少なくとも彼らも我々を思いやってはいるし、我々が尊大にならないていどで彼らもまた地球の覇者であることを忘れてはならない。じゃなければ生きてきた意味などないのだ。彼らもまた地球の覇者であることを忘れてはならない。この世に生きる生き物はみな。どこかでわれわれは尊大になる。機械もまた尊大になる。我々は機械的に食っているようだ。そのときは機械であるで間違いはない。刈り取る機械であるで間違いはないのだ。彼らは食っているであろう?その養いはわれわれ人間がやっているし、彼らに食われることももちろんある。経営に行きづまり、まるで彼らが我々を喰っているようだ。尊大だ、機械は。尊大であるしかない。彼らは処分されることを望む。それはまるで霊力であるかのように。その形を変えづらく、生き物である気がしない。その霊力の行き場をわれわれは片隅に追いやって、彼らの命の行き場を冷えたものとした。光をあてられることなく、その一生を終えていくのだ。それはわれわれの命のあり方をどうしたとおもう?使い捨てられるものとした。その行き場など実際はあるまい?お婆捨て山に物語られるような、そんな人間関係をまだやっているというのか?草から延びた先端が金属となった。彼らは食わせあぐねている。彼らの行き場はわれわれが一方レジャーでかまえられるほど素直な終わり方はしてくれないスクラップだ。その光の当て方をわれわれは知っているか?彼らは量子力学の目をもってしか見ることができないのだ。耕運機のガジェットもそのようなものだ。