体のデカさが、存在の軽さに感じる

「力を忘れる」ということをわれわれはよくしてないだろうか。つまり計算的な作業をして、実際にそれに「必要な手作業を忘れる」ということだ。

われわれはもともと効率よく「もっとも楽になるように」計算を行う。この場合、当然ながらいくら計算を効率よく最大限に有効にしたとしても、「現実の作業」は「0」になることはない。

つまりは「計算できること」も「∞」になることはないのだ。

ある意味、家を建て、果実を収穫し、途絶えないように畜産を行い、それよりも不便か不便でないかで、作業と計算のどちらが過多となっているかを心理的に捉えることができる。

牛の首を切るよりも楽な暮らしであろうか。ただ愛するものを切るということに。土に埋めてやれ。この土は牛の首が生えてこないまでも、それに近い。ほんとうは牛の首が生えてきて、われわれの投足を見届けていることだろう。まるでわれわれの全てかもしれない。突然首を切り落とされる。

「国」の存在自体が「0」のはず。「やってもらいたいこと」は山ほどあるが、例えそこに土地を構えているだけで、何一つやってもらってないとしても、取られることはあるか。つまりは会社も、同じように「0」なのだ。