弁護

弁、護というのは、その人の言葉を守ることにある。喀血している、乾燥している。髪を鷲掴みにされた人のように。本物か、そうでないか。肥料を撒いているのではない、単に引っぱっているのだ。これが弁護か?この人は引っぱるのをやめたら芋虫になってしまう。まず、その手を外せ。同時に全ての人を弁護する以外に方法はない、まずその手を外せ、と。まず、その手とその手を外せ、引っぱってたやつは少し休め。おかしなことを口走ってもかまわない。水と食料はあさっての分はある。おれはもう寝るぞ。芋虫が食ってるのが、そういった体だとしたら、天保の改革みたいに。蝶になる。蜜蜂が花粉を運んで、また新しい命が生まれる。眠った世界でまだ死んでもいなのに肥料になり、引っぱるのをやめた芋虫が葉っぱを食べる。葉がないたくさんの芋虫が干渉せず。たまになにかを出す。あちらでもこちらでもなにかを出す。まるで言語化が出てくるみたいに。それはかえれないみたいだ。なぜ言葉にするのかというと、われわれは緊張状態を見たくないからだ。言葉と言葉を撚り合わせることはできない。それは、だまれ、ということだ。言葉と言葉はもともと巡り合わなかったものなのだ。沈む水道管を差し込む10年。詰まり、ひび、型抜き、崩れ、廃棄、梃子、乗っ取り。高濃度廃棄物は住めないところに住んでいるたくさんの人だ。それを眠って、これならば本人は気づかない、きれいにして戻せたら。ムーアなんだが、ムーアといっていない。ムーア注射。どんなに魅力的な言葉もムーア注射だ。人を追ってしまった。叫びにも似たムーア注射を。