味は人から与えられたものではなく、人が作り出すもの

樹の幹は、それそのものはあまり美しいと感じることはない。過去一味がなくて、ただ疲れるだけの駄菓子はなにか。駄があまりにも駄すぎてもはや駄菓子とさえ呼ぶこともためらうのだ。枝豆をすり潰したら米の味がするかもしれない。意識はある意味二重の消費をしている。われわれはこれを無駄と思わなくてもいいのだ。長い進化を考えれば無駄と思って食べたものなどないだろう。あるいは巨木もただ動かないだけで、一歩二歩と動き出すかもしれない。あいつはハゲだ、あるいは会社も、樹の幹はそれそのものはあまり美しいと感じるものではない。あるいは親も。産業革命自体もそれほど美しいものではなかった、労働というものを見る限りは。この樹の幹のように、花や葉っぱではなく、使うためのものは捨てられてしまうだろう。大正ロマンというが、武士が美しい動きをしたとしても、令和の子供たちは会社のような樹の幹は美しいと思わない。一人で巨大な構造物を作るために、あるいはギヤのようなものが必要だと、小さなギヤと大きなギヤで、小さな力で長い距離を使って大きなギヤを回したとしても、宇宙進出が必要だとして、それで東京ドーム一個分の宇宙戦艦ヤマトを持ち上げたとしても、果たして一人だったら宇宙の東京ドームでやってけるだろうか。ちょうど我が家ほどのスペースがあり、レモン畑があったとして。平等とは自由社会においては「不平等が耐えきれなくなったもの」という意味で理解したほうがよいかもしれない。だが逆に平等をコンドームみたいなものと思うなら、果たして財産権が性的な意味じゃなく用いられたことなどあっただろうか。意識が二重の消費をしていると思うのはこういうところなのだ。ただ大好きなレモンと。燃えるような草原と風の匂いを感じながら宇宙を漂えたら。