e=πの証明

e=πの証明は以下のようになります。

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冗談ではありません。理由は「連続体だから」しかしながらここで話が終わってしまっては選択公理は拡がりを持ちません。幾何を持ち出した理由は「なぜ数学は拡がりをやめないのか」という疑問に答えるためです。ここで持ち出した連続体には「余連続体」が存在します。余連続体がなぜ存在すると言えるのかというと「解かれていない問題があるから」ということになります。それに強い条件を加え「非射影的なものは射影的なものよりも濃度が大きい」といえるのではないでしょうか。つまり「属せない算術」が「属せる算術」よりも常に多いということです。私は「好きな式を書いていい。」「自分の物理を持っていい。」と言います。なぜならば「あなたと私が違う」分だけ世界は豊かになると思うからです。「sex」はもともと「半分の」を意味するラテン語の「sexus」からきています。時計が12を法としているのでその半分の6でsex。sixというわけです。べつにあなたの半分が世界の1/4でも1/1729でもいいじゃないですか。なんならあなたの時計が61を法としていたっていいと思います。もうひとつ私の予想として超弦論の予想を言いたいと思います。「完璧な弦理論は本質的なスペクトルであろう。」

嘴点と価値のないもの。

どんなものでも嘴点となりうる。たとえば皿の置き方だったり。普通に尖閣諸島だったり。まったく違うものかと言えばそうではない。我々はカードを隠している分弱い力で繋がっている。確かな尖点であるとするなら水は絶対零度を超えても液体でありうる。エネルギーがないという状態で水がどんな幾何をとりうるか。エネルギーという呪縛から解き放たれたとき水は宇宙を満たせる。つまりどんな幾何でも取れるのだ。それは一分子であっても構わないのだ。なぜならばエネルギーで結びついたものではないからだ。HとOを2と1としても良いのだ。

消防総務課と現場

消防総務課は夜遅くまで働く。現場は悲惨な死に目にあう。どちらも高エネルギーだけどその2つはまったく同じものだと言いたい。休みが欲しい。給料が欲しい。見つめても見つめても影が折り重なるだけ。あらゆるモチベーションが完全にトレードオフされているからこそ役所は成り立っている。人の役に立ちたい。かと言って通常の業務に加え効率化作業を行うことは組織改善ではあるが今の自分にはメリットがないように思える。いずれスタンダードになるとしてもだ。このような多元平行性判断が消防総務課職員には求められる。それは現場職員にとって技術と「空転」のトレードオフと同じである。技術はいつも役に立つとは限らない。しかしいつそれが花咲くかはわからない。「空転」が常である体系であるがゆえ無駄が99.9%を占める。だからといって人の命だ。無駄をやめるわけにはいかない。訓練とは何か。それはキリがない終わりようのない「業務改善」である。あらゆる意味で体を資本としているので効率化こそが技術の本旨と言える。最も回避すべきは人の死に際しての乖離ではあるがここで役に立つのは多元平行性思考であるように思う。一つの命の喪失は人生の本質的なあり方に疑問を投げ掛ける。しかしいくら考えても出口が見えないときに固執した考え方の違う方向での組み合わせが組み合わさったとたんうまく解けてしまうことがある。そのような意味で消防総務課と現場はまったく同じものなのだ。

地球を土足で歩いてはいけない。

この言葉は科学者に向けられたものだ。医者でもない。我々の中に医者を「人間」だと思っている人はどれだけいるだろうか。当て付けに「あいつは偉い」と思っていないだろうか。それでも医師はやっていけるかもしれない。それが人間の感情だと言えばそうだろう。どんどんぶち撒ければいいのかもしれない。いつか有名になったエホバの証人の輸血問題を覚えているだろうか。エホバの証人は輸血をしないので無断で輸血をした医者は悪いという結果だ。いまは無輸血手術の技術もだいぶ論文が蓄えられてきて手術可能な医者も増えてきた。ある程度までは。手術箇所が2カ所3カ所になると普通の手術でさえ難易度は高くなる。無輸血であれば1度に手術することはさらに困難になる。だが技術が進歩したことによりエホバの証人はなお「自由」になった。信仰を無我にはされなくなったのだ。ある意味我々全体が自由を享受できるその原動力となったものだ。一方で科学者はその頭の中で太陽の核融合さえも上回る「モノポール」たるものを考えていたりする。「夏は熱い」と考える人は多いかもしれないがモノポールを使えば太陽を早く燃え尽きさせることができる。むしろ爆発する。その場所は涼しくなるだろうが地球は跡形もないだろう。このように我々にとって当たり前だと思っている「太陽」「月」「水」と言ったものを跡形もなくする考え方を科学者は頭の中に描いている。もう何度地球を粉々にしたかわからない。冗談ではなく我々の生活はこういった科学者の手に委ねられている。政治に関心があるないに関わらず税金は取られてこういった最先端同士の交わりに我々の関心はコントロールされバッティングする。コントロールするのは人格ではなく状態なのだ。あたかも我々はその状態を総理大臣なり一人の人格に収まっていることを望む。地球を土足で歩いてはいけない。もともと私は土足で歩いていないがどうやら私個人として土足であるくことは私個人の思想とバッティングするらしい。慎むといえばそうなのかもしれないが要は「人の許可なく地球にタッチできない」のだ。責任があると言える。純系外資源ステーションと言えば聞こえがいいかもしれないが、みなさんは地球が太陽の陰に隠れる「地球食」を見たことがあるだろうか。ないだろう。そもそもあんたどこにいるんだ?って感じだろう。だが人の潜在意識の中で例え仮様であっても地球が太陽の陰に隠れるのは怖いのだ。それは地球が太陽に飲み込まれたように見える。だいたい人はそれを見たことがない。つまりその遠近感が我々の意識になかったのだ。「国のために」と思う気持ちはご存知の通り世界ではバッティングしている。ただ昔の地球にはなかった「家族のために」という想いさえ今はバッティングしているのだ。政治がバッティングしている。ましてや江戸時代の「上様」などという気持ちは出だしからバッティングしているのだ。老害だと言える。話は最初に戻るが医者を「上様」だという気持ちもかなり地球に負担を掛けているのではないか。その肘を支えているのは結局我々なのだ。そのソファーもだ。「純系外資源ステーション」などと言えば「どうぞ勝手に行ってください。」と言いたくなるかもしれないがある意味「農学」だと言える。米もキリストの痛み分けも他人事ではない。