医師会とデータバンクは残念な関係にある

医師会とデータバンクは残念な関係にある。むしろデータバンクも残念な関係にある。個人の病症は残念ながら個人にもわからない。これを発展させられるのは個人しかない。『私の病症』をなぜ他人に求められようか。私個人は常々進化しているのである。つまるところ私と周囲の関係もだ。周囲の関係は刻一刻と進化しているといわざるをえない。周囲の環境が個人を取り巻いて刻一刻とよい方向に進化しているというのに、個人の健康状態が、信頼と実績を基に撮り溜めた医院のカルテほど進化しないとは、ありようもない。むろん人のこころは人とのつながりの中でできているため、健康状態が、個人のデータバンクが信頼と実績で積み上げた医院のカルテに凌駕するとは考えられない。ただここのリンクは慎重に行わなければならない。むろんデータバンクの診断はコストでいったらバラバラの医院のカルテの1/100ほどに満たないだろう。ただここに人のこころと県下、市下、もろともの信頼と実績で経営を営む診療所との隔離があるもので、たとえマイナンバー健康保険証が普及したところで、データのアクセスは市町村その他のセクションにおいて、別個に管理されるものであろう。国家の一元管理とは財産の放棄に等しい。最初はナンバーのみのアクセス、次第にはアクセスの許可を必要とする部門へと、個人のデータ管理の要望に応じて市町村のデータ管理へとこまを進めていかなくてはならない。『県下の管理』というのもこれもまたきけんなマクロのデータ配置であるのだ。

うごかないのか。うごけないのか。交通に目的がないとは本当か?

うごかないのか。うごけないのか。コンクリートの街に飛び出すマイサンシャイン。バリアの結界に君はいて。コミュニケーションの手段をさがす細い糸に手を伸ばす。カニ爪みたいに。ああ。もうだめね。一歩前に出てるきょうや君の魂。シチューをスプーンでごちゃごちゃにして。一方通行といえば君のこと。どこまでがフローでどこまでが実写なのか。交通に目的がないとは本当か?目的にも手段にもなりうる。その度合だ。女子が夜道をあるくように。道路にねそべるのもおなじこと。

宇宙際タイヒミュラー理論で評価されない数は、→本質的に違う、のか。

宇宙際タイヒミュラー理論で評価されない数は、→本質的に違う、のか。つまり遺伝子的に同じとされた個体に対して、違いが生めるか。あるいは、バーチャルとリアルが『同じもの』だと同定できるか、といったようなぐあいのはなしである。「光をみた線も含むもの」→それを生物個体とするならば、たとえ同じ遺伝子でできていても、〈違う場所〉にいさえすれば、違う個体といえるだろう。あるいは、違うものをみていさえすればだ。

全員が自由に考えてその思考を実現できる。そのスペースはあるのか?

全員が自由に考えてその思考を実現できる。そのスペースはあるのか?ある。トポロジーは干渉しない。トーサートポロジカルは?トポロジカルトーションは?相手をまるまるみるに至らない。なにを交換していったときにそれは干渉せずに最大に至るのか。なにを奪おうとしているのか。なにになろうとしているか。あいての奪われるにまかせる。そのときは不快でないのか。不快であるのは感情である。相手を過小評価していはしまいか。それで守ろうとしているのではないか。ありがた迷惑である。これでは最大は達成されない。

反社

だれも人間じゃない。だれも人間じゃないやつらが金をいくらくすねるか協議する。正義はこの世界を維持しようと慎ましやかに暮らしている。正義が建造したシステムの中で。だれも人間じゃないやつらが金をいくらくすねるか協議する。笑っていくらくすねますか?と申しわけなさそうに話しかける。どんなシステムをつくればいい?だれとなのか?もうどこにもいきていない。人の反社。

ウクライナには移動電力車が必要だ

ウクライナには移動電力車が必要だ。われわれは災害が起きて電力がシャットダウンしたときに、通信網が遮断されてしまわないように、『移動基地局』というような大きなアンテナを搭載した車両を被災地に送る。これによっていま一番通信が必要な被災地との交信を途絶えさせないことができる。

同じように、何世帯かを賄うことができる移動電力車をウクライナに派遣すれば、ウクライナの冬場の生活を維持することが可能だろう。戦力を維持するためには、床屋や喫茶店などといった通常の市民生活を送るための都市機能を維持することも非常に重要で、あるいはたばこなどの嗜好品を供給することも大切である。高い戦力を維持するには、兵士のスイッチを完全に『オフ』にすることも重要なのである。

岩石型惑星

岩石型惑星。地球はイオやエンセラドゥスのように岩石型惑星であるが、地球解析が進み、元来、岩石型の飛び飛びの値であったそれぞれのプレートなどの粘性などの係数が、なめらかな曲線で結ばれるようになった。もともと生命の存在には、水の存在と同様に『岩石』の存在も必須と考えられてきた。つまり、『飛び飛びの値』というのは生命が誕生し、進化する上で〈必要なもの〉であったということだ。地球解析が進み、宇宙解析が進み、あらゆる環境が、ぶつぶつ切れた状況の『別々の情報』であったものが、互いの相関とともに滑らかな曲線で結ばれるようになった。-では、とびとびの値であった岩石型の情報や物質はもう存在しないのか?-そうではない。我々ひとりひとりの人間の存在がすでに飛び飛びの存在であるのだ。情報がなめらかになるにつれ、われわれ一人一人の存在が特別であるのだ、とわかってきたのかもしれない。環境の存在が飛び飛びであったから、われわれは敢えて『滑らか』であるように存在を合わせてきたのかもしれない。環境が滑らかであっても我々は岩石のように個性を際立たせることができるようになってきた。環境がなめらかになり、岩石の存在がわれわれ一人一人の方向にうつってきたのだ。我々の存続にとって、なにが重要であるのか。いま一度考えてみてもいい。岩石型惑星。その存続にとって。

宇宙そのものも岩石型で、宇宙際タイヒミュラー理論に象徴されるように、岩石型にゴツゴツと積み重なったものがあたかも連続で一つづきに見えているだけかもしれない。重ね合わさったものが連続に見えているだけで、当初予想されていたアインシュタインなメタリックも、大きさもバラバラなケーラーであるものが空間を埋め尽くしてそうであるようにみえているだけかもしれない。つまりはその相互作用も『見る』という行為も、それらの宇宙の『商』として表現されているのかもしれない。アインシュタインメトリックもその連続時空の因子や写像を与えるひとつの作用素やスキームであるだけかもしれない。