ϑリンクと放爆構造

望月教授が宇宙際タイヒミュラー理論を説明する際、『「契約結婚」のようなものだ。』といった話を読んだ。テレビの中にテレビがあってϑリンクを通して情報を交換し合うといった説明だった。ここでもうちょっと違った見方をしてみたい。表記にある放爆構造についての見方だ。この放爆構造というのは危険物を扱う際、建物に課せられる規制で、爆風が周囲に広がらないように上方に力を逃す構造である。規制されるのはここまでであるが、環境問題ともいうべき次のことを考えていきたい。爆発した危険物はともすれば爆発しなかった危険物を放り上げ、場合によっては空中で二段階目の爆発をすることもあるだろう。正しく放爆構造であればなおさら三段階目まで起こるかもしれない。結局このように持ち上がった爆風は完全爆発であれば風だけが放物線を描く。そうでなければ残骸が放物線を描いて落ちてくる。放物線を描かないものもあってそれは放射線である。放射線は放射していきそのまま直進する。私が言いたいϑリンクの別の見方はこのときの「大気の様子」である。大気がどの程度放物線とリンクするかである。放射線にはα線β線γ線があって、それぞれヘリウム原子核、電子、光子である。重さの並びもこの通りであって重力を振り切って宇宙空間まで逃げようとする速度もα、β、γの順に速くなっていく。ϑリンクは掛け算系のモノイドと局所的なガロア群だけ。つまり地上で起きた出来事が大気とどの程度リンクするかを計算するのだ。今までの考え方であると地上で作られた放射線をどのように真っ直ぐ太陽に落とすか、あるいは宇宙エレベータや途中の「ガソリンスタンド」を経由して太陽、地球と似た構造をしているなんでも食べては吐き出してくれそうなもの、に向かって猛スピードで廻る速度を計算して投げ込むか、を考えていた。つまりは地球の重力に逆らって打ち上げるのだ。もちろんこのやり方が役に立たないと言っているわけではない。もし我々が系外の恒星の周りに居を構えようとしたら系外に投げることはもちろんまず系内に投げなくてはならない。ここで考えてみることは、我々が太陽を見るときによく目にする「虹」は赤外線と紫外線をつなげてドーナツ状にすることは可能なのだろうか。つまりは平たく見えているあの輪っかを丸めることはできるのか?ということである。だがここで考えなくてはならないのはあの輪っかは横に緩やかにアーチを描いていると見せかけて実は太陽からの無数の放射線、「縦のライン」で描かれているということだ。つまり虹は完全に「刻まれて」いるのだ。これはつまりあの太陽も実は「放爆構造である」ということだ。そこで大気によるϑリンクを考えてみてはどうかと。いままでなんだかんだと我々は重力にこだわってきた気がする。それはあまりにその力が大きすぎるがゆえ打ち上げたいという結果の現れかもしれない。打ち上げることも一つの正論かもしれない。だが打ち上げることは今のところ必ず国際問題なのだ。高い計算と総動員を要し、ミスは大問題となる。環境面からもϑリンクを考えていったほうがいいと思う。

完璧な弦理論は本質的なスペクトルであろう

標記の議論をするまえに私の好きな数学者の話をしたい。その数学者の名前を私はしばらく思い出せずにいた。なんとか検索したいと思ってその数学者が「砂漠で生まれた」というような文献を見たことを思い出した。その数学者がアメリカの数学者だということもわかっていた。そして素数に関わる仕事をしたということも。何を隠そう私はその数学者の事をマーカス・デュ・ソートイの「素数の音楽」で知ったのだった。その数学者は女性で、私は「アメリカ 数学者 女性 ネバダ州」あたりのキーワードを使って探してみたがなかなか見つからない。そのあたりから私は「もしかしたらカナダの数学者だったかもしれない」と思うようになり、しまいには「カナダ人の数学者には、なにか「傾向」があるんじゃないか」とかほぼほぼその方とは関係のない検索へとシフトしていってしまった。それから私は、「もしかしたらその数学者の名前が知りたいんじゃなくてその数式が知りたいんじゃないのか」と、ごく当たり前のことを考えるようになった。そしたら今度は「その数式に自分で辿り着く頃にはその数学者の名前も自然と出てくるようになるだろう」などと考えるようになった。結局その数学者はジュリア・ロビンソンだったのだが一貫して私のイメージにあったのは「砂漠の中の一軒家で空想を広げる二人の姉妹」だったと思われる。そして式の方はユーリ・マチャセビッチによる「マチャセビッチの多項式」だった。本の中ではそのマチャセビッチの多項式が発表されたがそれを見たよくわからないけどたぶん偉人が「これじゃ何もわからない」と言ったとか。ほんとうにそうなのだろうか。マイナスの解にも何かしら意味があったりするのでは?私にはそこに出てくるアルファベット全てがまるでジュリアが見ていた砂漠の砂のようで、たくさんある砂の粒が繋がってキラキラと輝きだすようなそんな美しい式に感じた。いまWikipediaを見てみるとジュリアが育ったミズーリ州にそんな砂漠ってあります?って感じなのだが、私にはとても「絵画的な」式であるように思えるのだ。

標記の議題に戻ると本質的なスペクトルとは「徹底的に可逆でない」スペクトルのことだ。私にとってマチャセビッチの多項式とそれにまつわるロビンソン姉妹のイメージはかなりとっておきの話だが、それがスペクトルと弦理論と何の関係があるのか。もしだ。この世界に人の名前以外に「物理的なプラットホームがない」としたらどうだろうか。人の名前は「認識される」という意味で本質的なスペクトルではない。私がイメージしているのはこのだだっ広い宇宙空間でバラバラに暮らしている人類が「真に一本な弦」であるとき「認識されること」は「最後の物理」であるということ。つまりは「共通に認識されていること=物理」であるとするならばだ。我々は本質的なスペクトルであるだろう。つまりは我々は「違う」ということだ。

ホログラフィー原理とくりこみ

このふたつが何か共通の交換式のようなもので表せる気がしているのは私だけだろうか。あるいはそういった論文がもうあるのかもしれない。私が解するところによるとホログラフィーは「ブラックホールの中での出来事はブラックホールの表面に表れている」ということだ。当然といえば当然でブラックホールの中は光が脱出することができない故、我々が信じてやまないこのふたつのまなこによって確認することができない。だからブラックホールの表面を見ることで中で何が起きているかということを逆算してみようという魂胆だ。できれば見たいですという気持ちが溢れている考えだ。それと我々がかなりの数学的な裏付けをもって使い日々進化を遂げているくりこみについても紫外発散と赤外発散を繋ぐ一大分野となっている。統計力学や熱力学は数学的に「およそ成り立っているだろう事」ではあるが、相転移や臨界現象といった部分はまさに物理と数学がシームレスに繋がろうとしている現場であって、おいそれと「数学的にこうだから」「物理的にこうだから」と納得してしまっては21世紀の科学に進歩がないところではある。私がここの分野に関して思っているのは位相幾何学的に解決するところが大いにあるのではないかというところである。統計や熱力学では「状態は平衡に向かう」という。我々生物でもだ。だか本当にそうなのだろうか。我々が平衡の向こう側に置いてきた「結び目」や「絡み目」があるのではないだろうか。そうじゃなかったら我々の「こだわり」はどうなるのか。誰かが「これが当たり前(平衡)だから」と言ったらそれがよしということになるだろうか。片一方ではそうかもしれない。東大の人が「あの人東大だから」と言われたら世間と本人はそれなりの「平衡」に近いような気持ちも抱くに違いない。ただ私がやっぱり思うのはじゃあその人の「名前」はどうなったのかということだ。東大だからといって親からもらった名前はどうでもいいのか。いや。よくないだろう。つまりだ。それに似たようなことが階層的にホログラフィーやらくりこみやらの間に起こっているだろうと思うのだ。当たり前の事を言ったかもしれない。逆のことが同時に起こるというのは物理じゃ当たり前のことだからだ。そして結び目と絡み目があってブラックホールはより大きな対称性に対して結合定数なしに解けているということだ。

太鼓の形を聴くことが出来るか

統計力学と境界問題である。ぼくらはたいこ。リムは人。自分が緩んでるときは誰かを「鳴ってほしい」だけどなかなか思ってるようには人の顔にはその人の気持ちは表れない。だって僕が生きてきた環境とはまるで違う。その人が苦労してるかどうかなんてわからない。だから人は馴れ合いのフラグをたてて「顔」をみんなで合わせようとする。

それにしてもだ。標記の問題である。これは確率の問題にしかならないのではあるまいか。確率として太鼓の形を予測するのである。この予測の仕方は超弦論でもさして変わっていないように思える。我々は有効な繰り込みを探してそれを見つけたら「やった。」という。これを繰り返し繰り返し人は世界のベールを一枚一枚剥がしてきた。究極に言いたいのは「時間閉曲線は存在しますか?」ということなのだろう。だがその時間閉曲線を知るためにアト秒フェムト秒と時間閉曲線をデルタ関数的に引き伸ばしてきたのは皮肉だ。物理学者はそこに飛び込めるかもしれないが、その引き延ばしの時間を作ってきたのは様々な宗教と最先端の科学者の間にいる「少し努力した人」たちなのかもしれない。彼らには一向に物理と宗教両方の恩恵を受けていない。ヤバめのYouTuberにでもなるしかない状況だ。でなきゃ半グレの海に飲み込まれてしまいそうだ。父も母も頑張ったけど報われなかった。社会に3/4平伏して生きてたのに。そんな親を見てきたならなおさらだ。

あなたにはあなたの時間閉曲線がある。そう確かに言ってやりたい。それは名前だろう。それが自分の物理に結び付いていることを。自分のζに結び付いていることを。どうやったら伝えられるだろうか。サッカーが上手くなくてもいい。バスケが上手くなくてもいい。自分を諦めないでほしい。あなたが世界の中心じゃないならいったい何が世界の中心なんだ?

太鼓の形は人だろう。それを人が聴こうとする限り。そしてそれはすべてだ。太鼓の形はその人が見たい世界だろう。私がそれを証明しよう。君が目覚めたら君が証明してくれ。我々の脳の中にはものすごい次元がある。それが4次元にまとまっていて爆発することはないんだろう。

二階述語論理。カオスアトラクターと美食探偵の巡礼。

∃=→

∀=→

一階述語論理

∃→

∀→

命題論理

公理を持たない。空な公理集合を持つ。公理集合は空集合を採用する。

ZFC(Zermelo-Fraenkel set-theory with the axiom of Choice)

バナッハ=タルスキーのパラドックスの考えるにあたってやはり気になるのはフラクタル次元の定義だろう。いったいフラクタル次元をどのように定量化するのが正しいか。カオスのアトラクターは何があるのか。『数』そのものがいったい何を目指しているのか。カオスは純粋数学者のメインの興味の対象ではないかもしれない。それでも私には「生命」「数学」「化学」「物理」「国語」もすべてをつなぐ次元のゆらぎあるいは我々に届く食べ物が我々の汚れた手から口への短い距離を精神的に離し、それが成仏して口に届くようにする最高の調理器具、むしろそれがなくては自己免疫反応で死んでしまうような儀式的な巡礼である気がしてならない。そうだ。ストレインジアトラクターは巡礼なのだ。爾、巡礼の道を諦めるなかれ。それは果てしなく遠いが、あなたが、私が本当の意味で生まれるための唯一の滑走路なのだ。私と愛ちゃんは一度空ですれ違った。次にすれ違うのは宇宙のどこか。この果てしない巡礼の旅は続く。愛ちゃんは美食探偵なのだ。

速度は「粘性」か。光速の粘性とは。

速度は粘性か。

→粘性を伴わない速度はない。

→速度は粘性である。

空気中の移動が粘性を伴うのはいうまでもない。問題は「光速で移動するもの」についても「速度は粘性である」と言えるかどうかだ。アインシュタイン計量の中を進む物体は絶えず時空を変化させながら進んでいく。これは相対論的流体力学であるが、私が議論しているのは宇宙全体を一続きの連続体として記述できるかということである。時間閉曲線があったとしても無限コクセター群は必ずしも鏡映群として表現されるとは限らない。有限コクセター群は必ず何らかの鏡映群として表現できる。それにつけても我々の意識は宇宙をあっさりと横切るのだ。我々の意識は高々「3次元の歪み」すら思い描くことが出来ないが、この点では「3次元以上に高等なもの」であることが証明されるだろう。この意味で物質にこだわることはないが、強いていうなれば「iPS細胞を用いて直接的に「精神」を作り出すことはできない」ということが証明になろうか。

これを考えると最初に記述した「粘性を伴わない速度はない。」の仮定が怪しくなってくる。このあたりは最近考えた「スペクトルエンタングルメント」の研究を進めるしかないが、究極的に考えれば我々の行動は「粘性を伴わない速度を求めた結果」であるとすら言えるのではないだろうか。無限を有限のものを使って表すこと。つまりは「1,2,3,4次元がそれ以上の次元を持っても滑らかに繋がっているか」「アインシュタイン計量を2つ以上の宇宙際幾何に拡張できるか」ということである。

コカイン、カート、植物人間

ドラッグストアーの駐車場に植えられた双子葉低木を見やる。温和な気候に照らされて幸せを謳歌しているように思える。まるで植物たちの理想であるかのように。タイガに生えるイトスギ、ギラギラの太陽に照らされたクロツグ。彼らは笑って見ているだろうか。この幸せな街路樹を我が子のように。体の中に幸せを満たしているから我々をその世界に誘うのだろうか。

昔はよく林で遊んだ。小学校の頃の話だ。むろんそれ以前にも原っぱで遊んだ。茂みの奥に入ろうとしてギザギザの葉っぱで腕を切った。しんみり痛くてその傷を見やると血管はジンジンしてくる。血圧が下がっているのだ。ダニの牙のように自らが破裂するまで喰い付いてくる。恐竜が茂みの中に潜んでいる。

家族で山にも登った。小さな岩場の山頂で写真を撮った。その写真は見た事がない。細道で足を滑らせて兄に捕まれた。枝で腕を切った。長袖は脱いでいたのだ。「行きはよいよい帰りは怖い」と母は言っていた。

我々は植物に囲まれて生きている。それは疑う由もない。コメもモロコシも我々をその世界へと誘う。悲しいような。嬉しいような。ラフレシアは「ハエとシロアリとアリとブドウの花」一概にはそうとは言えないが彼らの世界の中にその世界へと誘う甘い香りを放つ。我々には便所の臭いかもしれない。

植物が我々を支配しているのか。でも我々は生きたい。彼らは我々を見て笑っているのか。風を介して声が聞けるかもしれない。いずれにせよ我々は幸せな街路樹に太陽と風を感じて肌を寄せているのだ。こんどは我々が彼らの親になってもいいのではないか。子供の頃遊んだ密林に息を吹きかけてみる。いや兄弟でもいいんだ。