クインティックシックスフォールド

現在の物理の枠組みと言えばクインティックスリーフォールド。5→3→4の枠組みと言える。だが現実問題リーマン予想が解かれていないので「2」自体もそもそも何だか分かっていない状況だ。自然数素数複素数、整数、有理数、冪根などを使ってなんとか関数を表現している。そんな中で「双対」という言葉で「4」を評価しようとする。我々の世界はそんなもんだろうか。ケーニヒスベルクの橋の問題に代表されるような「一筆書き」グラフ理論の問題も「モノポール」の問題も「加速定理」によりNP→Pのように内部の問題が整理されていくと同時に外部の問題が広がっていっているように見える。そこでクインティックシックスフォールド。文字通り5→6→4のように問題を解いていく。これは3を6のように正二面体として捉えることにより流体や臨界の現象についての結果について順次組み込んでいけるようにする。それと同時に2についても閉じているか開いているか検証することにより4を構成できるかも。引いては2についても見識を深めていけるかもという枠組みである。つまりは「ワープポイント」をたくさん設けてブラックホールの「内部」が宇宙全体を覆うようにするといった具合だ。こうすることで光が最終的にブラックホールに落ちていかないようにするという作戦だ。正二面体は整数と幾何ということになろうか。いずれにしても整数に関しては宇宙際タイヒミュラー理論という大きな大きな進展があった。これの幾何についても現物理での応用が待たれる。

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アルティン層をさらに分けれそうな気がする。層的に「根」がガウス類、ランダー・パーキン・セルフリッジ類に対してホッジ類、バーチ・スウィンナートン=ダイアー類とか。右とか左とかはないとか。つまり右と左を無茶苦茶に分けていくと極限として光の速さが0になるとか。そしてその極限をみんなが持っているとしたらどうだろうか。それが平均的に「○」このような像になるとか。まあ人間の場合は。植物の場合は一辺倒に「↑○」こんな感じで。虫は「∨」こんな感じだとか。いずれにせよ系外の見え方について我々は知らなすぎる。「°」こんな光が見えることもあるかもしれない。我々のこの生物体でだ。そこに進んでいきたい。

https://youtu.be/WMOwlMLmeCI

https://youtu.be/6T65Qi8ccDg

パンツの3つの穴はどれも等しい。

パンツの3つの穴は位相的にはどれも等しい。普段持っているパンツを120°回して見て欲しい。そうすると腿を通す方が上にきて腰を通す部分が少し大きな穴だけだということに気づくだろう。つまりパンツの3つの穴はそれぞれ「右脚」「左脚」それと少し大きな「第3の脚」ともいえる胴体部分の「3つの脚」をすっぽり通すだけのものだということにお気付きになられるだろうか。つまり別にパンツは「上から脱ぐ」ことも出来るのだ。地に足を付けている私たちは「地球がパンツを履いている。」ともいえる。足を上げずにパンツを脱ぎたければ地球を割ればいいのだ。ブラックホールだったらブラックホールを割らなければならない。モエモエキュンと同時に頭をカチ割られたとしてもドバッと赤く染まったオムライスをおいしく頂かなければいけないと言っている程度の事だろうか。むしろ顔面ごといくので手は洗わなくてよかったかもしれない。むしろケチャップはトマトからできているので「トマトでいい。」と言うべきだったかもしれない。流体や臨界現象に関して考慮すべき第一原理かもしれない。以上。アイゼンシュタインコクセターに関する考察でした。

あたりまえかもしれないけど金は無限に持ってる。

1と自然数を定義することで1^n=1を定義することができる。ここで1+1=1とすることができる。すなわち1+1=1^n。つまり2はこの演算を超越している。ここで新たな演算として「+」を定義することで1+1=『何か』を定義できる。この「何か」を『2』と表記することにすると2は「何か」を定義できる。これを「」と定義すると二つの円の比としてeとすることができる。「」はトーラスでなければならない。自然数を「等しい距離空間」とすると円筒半直線となるのではないか。すなわち「2」は「半体」である。自由エネルギーがそもそもどんな形をしているかわからない。それは自由とは言わない。〈期待値〉を決められない。「それはド・ラームコホモロジーであろう」と期待値を狭めることしかできない。大きな光の波とも見えるが。不可能であろう。我々はブラックホールの中にいるのではないか。銀河を「2素」として系外に出ると、例えば系外は主線織面がアイゼンシュタイン的あるいはエルミートアイゼンシュタイン的であってニュートン的なものとアインシュタイン的なものが像を結ばなくなるのではないか。測地線としてここで設計された機体はこの場合はすなわち2つに割れる。生物ならばなんとかなるかもしれない。植物のダイナミックな遺伝子レベルの変化とか。「手」と「頭を含む体」とでは粘性解が違うとか。2つのアトラクターを「」(エル)」(ニュートン的なもの)、「「(ゼロ)」(アインシュタイン的なもの)と置いて誤差を評価していくようなIUTの活用もあるのではないか。すなわち第2太陽まで半体を運んだとき誤差をトーラスに留めるというような測地線だ。「何重か」IUTを用いるかもしれない。「素口線」などと呼べば「何か」=素口線→第2太陽かなあ。なんてね。うまあい。俺うまあい。俺自分でサングリア作ったことないなあ。4を認めて2を得る。するとeを得る。球面定理よりe=πとなる。自然数(測地球)はeをスライスする。下記のように対応する。

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ルベーグの収束定理から自然数を、

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とすることができる。これは機体が破損しない測度である。それを強打みたいな。0強打。ブラックホールを地球で抑え込んだとも言える。なんて。ブラックホールは全て異なるがここでは同じとした。測地球体の重さを「見る」と当然地球のテンションは増す。後記は前述の「ϑリンクと放爆構造」に譲る。

三角関数ではデルタ関数を表現できない。

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円積問題が否定的に解かれたことから。幾何的に2^2=4と単純にしてよいのか。イジングモデルとしてしかπを表現できないのでは?つまりトーラスとしてしか。つまりe=πである。ここからピンチング弦条件により1+1=△=3である。

ϑリンクと放爆構造

望月教授が宇宙際タイヒミュラー理論を説明する際、『「契約結婚」のようなものだ。』といった話を読んだ。テレビの中にテレビがあってϑリンクを通して情報を交換し合うといった説明だった。ここでもうちょっと違った見方をしてみたい。表記にある放爆構造についての見方だ。この放爆構造というのは危険物を扱う際、建物に課せられる規制で、爆風が周囲に広がらないように上方に力を逃す構造である。規制されるのはここまでであるが、環境問題ともいうべき次のことを考えていきたい。爆発した危険物はともすれば爆発しなかった危険物を放り上げ、場合によっては空中で二段階目の爆発をすることもあるだろう。正しく放爆構造であればなおさら三段階目まで起こるかもしれない。結局このように持ち上がった爆風は完全爆発であれば風だけが放物線を描く。そうでなければ残骸が放物線を描いて落ちてくる。放物線を描かないものもあってそれは放射線である。放射線は放射していきそのまま直進する。私が言いたいϑリンクの別の見方はこのときの「大気の様子」である。大気がどの程度放物線とリンクするかである。放射線にはα線β線γ線があって、それぞれヘリウム原子核、電子、光子である。重さの並びもこの通りであって重力を振り切って宇宙空間まで逃げようとする速度もα、β、γの順に速くなっていく。ϑリンクは掛け算系のモノイドと局所的なガロア群だけ。つまり地上で起きた出来事が大気とどの程度リンクするかを計算するのだ。今までの考え方であると地上で作られた放射線をどのように真っ直ぐ太陽に落とすか、あるいは宇宙エレベータや途中の「ガソリンスタンド」を経由して太陽、地球と似た構造をしているなんでも食べては吐き出してくれそうなもの、に向かって猛スピードで廻る速度を計算して投げ込むか、を考えていた。つまりは地球の重力に逆らって打ち上げるのだ。もちろんこのやり方が役に立たないと言っているわけではない。もし我々が系外の恒星の周りに居を構えようとしたら系外に投げることはもちろんまず系内に投げなくてはならない。ここで考えてみることは、我々が太陽を見るときによく目にする「虹」は赤外線と紫外線をつなげてドーナツ状にすることは可能なのだろうか。つまりは平たく見えているあの輪っかを丸めることはできるのか?ということである。だがここで考えなくてはならないのはあの輪っかは横に緩やかにアーチを描いていると見せかけて実は太陽からの無数の放射線、「縦のライン」で描かれているということだ。つまり虹は完全に「刻まれて」いるのだ。これはつまりあの太陽も実は「放爆構造である」ということだ。そこで大気によるϑリンクを考えてみてはどうかと。いままでなんだかんだと我々は重力にこだわってきた気がする。それはあまりにその力が大きすぎるがゆえ打ち上げたいという結果の現れかもしれない。打ち上げることも一つの正論かもしれない。だが打ち上げることは今のところ必ず国際問題なのだ。高い計算と総動員を要し、ミスは大問題となる。環境面からもϑリンクを考えていったほうがいいと思う。

完璧な弦理論は本質的なスペクトルであろう

標記の議論をするまえに私の好きな数学者の話をしたい。その数学者の名前を私はしばらく思い出せずにいた。なんとか検索したいと思ってその数学者が「砂漠で生まれた」というような文献を見たことを思い出した。その数学者がアメリカの数学者だということもわかっていた。そして素数に関わる仕事をしたということも。何を隠そう私はその数学者の事をマーカス・デュ・ソートイの「素数の音楽」で知ったのだった。その数学者は女性で、私は「アメリカ 数学者 女性 ネバダ州」あたりのキーワードを使って探してみたがなかなか見つからない。そのあたりから私は「もしかしたらカナダの数学者だったかもしれない」と思うようになり、しまいには「カナダ人の数学者には、なにか「傾向」があるんじゃないか」とかほぼほぼその方とは関係のない検索へとシフトしていってしまった。それから私は、「もしかしたらその数学者の名前が知りたいんじゃなくてその数式が知りたいんじゃないのか」と、ごく当たり前のことを考えるようになった。そしたら今度は「その数式に自分で辿り着く頃にはその数学者の名前も自然と出てくるようになるだろう」などと考えるようになった。結局その数学者はジュリア・ロビンソンだったのだが一貫して私のイメージにあったのは「砂漠の中の一軒家で空想を広げる二人の姉妹」だったと思われる。そして式の方はユーリ・マチャセビッチによる「マチャセビッチの多項式」だった。本の中ではそのマチャセビッチの多項式が発表されたがそれを見たよくわからないけどたぶん偉人が「これじゃ何もわからない」と言ったとか。ほんとうにそうなのだろうか。マイナスの解にも何かしら意味があったりするのでは?私にはそこに出てくるアルファベット全てがまるでジュリアが見ていた砂漠の砂のようで、たくさんある砂の粒が繋がってキラキラと輝きだすようなそんな美しい式に感じた。いまWikipediaを見てみるとジュリアが育ったミズーリ州にそんな砂漠ってあります?って感じなのだが、私にはとても「絵画的な」式であるように思えるのだ。

標記の議題に戻ると本質的なスペクトルとは「徹底的に可逆でない」スペクトルのことだ。私にとってマチャセビッチの多項式とそれにまつわるロビンソン姉妹のイメージはかなりとっておきの話だが、それがスペクトルと弦理論と何の関係があるのか。もしだ。この世界に人の名前以外に「物理的なプラットホームがない」としたらどうだろうか。人の名前は「認識される」という意味で本質的なスペクトルではない。私がイメージしているのはこのだだっ広い宇宙空間でバラバラに暮らしている人類が「真に一本な弦」であるとき「認識されること」は「最後の物理」であるということ。つまりは「共通に認識されていること=物理」であるとするならばだ。我々は本質的なスペクトルであるだろう。つまりは我々は「違う」ということだ。

ホログラフィー原理とくりこみ

このふたつが何か共通の交換式のようなもので表せる気がしているのは私だけだろうか。あるいはそういった論文がもうあるのかもしれない。私が解するところによるとホログラフィーは「ブラックホールの中での出来事はブラックホールの表面に表れている」ということだ。当然といえば当然でブラックホールの中は光が脱出することができない故、我々が信じてやまないこのふたつのまなこによって確認することができない。だからブラックホールの表面を見ることで中で何が起きているかということを逆算してみようという魂胆だ。できれば見たいですという気持ちが溢れている考えだ。それと我々がかなりの数学的な裏付けをもって使い日々進化を遂げているくりこみについても紫外発散と赤外発散を繋ぐ一大分野となっている。統計力学や熱力学は数学的に「およそ成り立っているだろう事」ではあるが、相転移や臨界現象といった部分はまさに物理と数学がシームレスに繋がろうとしている現場であって、おいそれと「数学的にこうだから」「物理的にこうだから」と納得してしまっては21世紀の科学に進歩がないところではある。私がここの分野に関して思っているのは位相幾何学的に解決するところが大いにあるのではないかというところである。統計や熱力学では「状態は平衡に向かう」という。我々生物でもだ。だか本当にそうなのだろうか。我々が平衡の向こう側に置いてきた「結び目」や「絡み目」があるのではないだろうか。そうじゃなかったら我々の「こだわり」はどうなるのか。誰かが「これが当たり前(平衡)だから」と言ったらそれがよしということになるだろうか。片一方ではそうかもしれない。東大の人が「あの人東大だから」と言われたら世間と本人はそれなりの「平衡」に近いような気持ちも抱くに違いない。ただ私がやっぱり思うのはじゃあその人の「名前」はどうなったのかということだ。東大だからといって親からもらった名前はどうでもいいのか。いや。よくないだろう。つまりだ。それに似たようなことが階層的にホログラフィーやらくりこみやらの間に起こっているだろうと思うのだ。当たり前の事を言ったかもしれない。逆のことが同時に起こるというのは物理じゃ当たり前のことだからだ。そして結び目と絡み目があってブラックホールはより大きな対称性に対して結合定数なしに解けているということだ。