消防総務課と現場

消防総務課は夜遅くまで働く。現場は悲惨な死に目にあう。どちらも高エネルギーだけどその2つはまったく同じものだと言いたい。休みが欲しい。給料が欲しい。見つめても見つめても影が折り重なるだけ。あらゆるモチベーションが完全にトレードオフされているからこそ役所は成り立っている。人の役に立ちたい。かと言って通常の業務に加え効率化作業を行うことは組織改善ではあるが今の自分にはメリットがないように思える。いずれスタンダードになるとしてもだ。このような多元平行性判断が消防総務課職員には求められる。それは現場職員にとって技術と「空転」のトレードオフと同じである。技術はいつも役に立つとは限らない。しかしいつそれが花咲くかはわからない。「空転」が常である体系であるがゆえ無駄が99.9%を占める。だからといって人の命だ。無駄をやめるわけにはいかない。訓練とは何か。それはキリがない終わりようのない「業務改善」である。あらゆる意味で体を資本としているので効率化こそが技術の本旨と言える。最も回避すべきは人の死に際しての乖離ではあるがここで役に立つのは多元平行性思考であるように思う。一つの命の喪失は人生の本質的なあり方に疑問を投げ掛ける。しかしいくら考えても出口が見えないときに固執した考え方の違う方向での組み合わせが組み合わさったとたんうまく解けてしまうことがある。そのような意味で消防総務課と現場はまったく同じものなのだ。

地球を土足で歩いてはいけない。

この言葉は科学者に向けられたものだ。医者でもない。我々の中に医者を「人間」だと思っている人はどれだけいるだろうか。当て付けに「あいつは偉い」と思っていないだろうか。それでも医師はやっていけるかもしれない。それが人間の感情だと言えばそうだろう。どんどんぶち撒ければいいのかもしれない。いつか有名になったエホバの証人の輸血問題を覚えているだろうか。エホバの証人は輸血をしないので無断で輸血をした医者は悪いという結果だ。いまは無輸血手術の技術もだいぶ論文が蓄えられてきて手術可能な医者も増えてきた。ある程度までは。手術箇所が2カ所3カ所になると普通の手術でさえ難易度は高くなる。無輸血であれば1度に手術することはさらに困難になる。だが技術が進歩したことによりエホバの証人はなお「自由」になった。信仰を無我にはされなくなったのだ。ある意味我々全体が自由を享受できるその原動力となったものだ。一方で科学者はその頭の中で太陽の核融合さえも上回る「モノポール」たるものを考えていたりする。「夏は熱い」と考える人は多いかもしれないがモノポールを使えば太陽を早く燃え尽きさせることができる。むしろ爆発する。その場所は涼しくなるだろうが地球は跡形もないだろう。このように我々にとって当たり前だと思っている「太陽」「月」「水」と言ったものを跡形もなくする考え方を科学者は頭の中に描いている。もう何度地球を粉々にしたかわからない。冗談ではなく我々の生活はこういった科学者の手に委ねられている。政治に関心があるないに関わらず税金は取られてこういった最先端同士の交わりに我々の関心はコントロールされバッティングする。コントロールするのは人格ではなく状態なのだ。あたかも我々はその状態を総理大臣なり一人の人格に収まっていることを望む。地球を土足で歩いてはいけない。もともと私は土足で歩いていないがどうやら私個人として土足であるくことは私個人の思想とバッティングするらしい。慎むといえばそうなのかもしれないが要は「人の許可なく地球にタッチできない」のだ。責任があると言える。純系外資源ステーションと言えば聞こえがいいかもしれないが、みなさんは地球が太陽の陰に隠れる「地球食」を見たことがあるだろうか。ないだろう。そもそもあんたどこにいるんだ?って感じだろう。だが人の潜在意識の中で例え仮様であっても地球が太陽の陰に隠れるのは怖いのだ。それは地球が太陽に飲み込まれたように見える。だいたい人はそれを見たことがない。つまりその遠近感が我々の意識になかったのだ。「国のために」と思う気持ちはご存知の通り世界ではバッティングしている。ただ昔の地球にはなかった「家族のために」という想いさえ今はバッティングしているのだ。政治がバッティングしている。ましてや江戸時代の「上様」などという気持ちは出だしからバッティングしているのだ。老害だと言える。話は最初に戻るが医者を「上様」だという気持ちもかなり地球に負担を掛けているのではないか。その肘を支えているのは結局我々なのだ。そのソファーもだ。「純系外資源ステーション」などと言えば「どうぞ勝手に行ってください。」と言いたくなるかもしれないがある意味「農学」だと言える。米もキリストの痛み分けも他人事ではない。

弁護士会について

昨日から「弁護士会」というものに疑問を感じている。「弁護士全体の意見を反映する」会なのだろうか。「弁護士会としてはこう感じている。」みたいな。「裁判官会」や「検察官会」がないのは、あるのかないのかわからないが、あったらあんまりよくないかもしれない、というのはわかる。それでもなんとなく裁判官同士の同期の飲み会とかで「俺昔間違っちゃったんだよね。」とポツリと呟く光景が浮かぶ。もちろんそんなことはないのかもしれない。ただ弁護士が会を開くということは「この法律はこういう解釈でいいよね?」と何人かが意見を合わせているようなイメージを抱く。果たしてそんなもんでいいのか。100人いたら100人分の解釈があったほうがいいのではないか。そのほうが人間の多様性を守れるのではないか。いざ裁判になってみて「○○法○○○条第○項の規程により…」検事「いや。それそんな法律じゃないよ!」「いや。僕はそう思いません。」みたいなほうがよっぽど人を守れるんじゃないだろうか。談合は結局いじめを招くのだ。引いては子供たちにも談合といじめを招いている。そう感じた。曲がりなりにも法曹ではないか。弁護士会に入っていない弁護士もいるかもしれない。ちょっと変わった金の取り方をしていてさしもいい仕事ができなかったかもしれない。むしろ全然赤字かもしれない。だがそれでいいではないか。自分の意見を持ってないのは弁護士として致命的だ。

超弦論とE=mc^2

我ながらなかなか魅力的なタイトルだと感じる。超弦論の話を人にしようと思っても「そもそも相対性理論がわからない」というところに人は壁を感じてしまうのではないだろうか。最近は芸人さんでも「アインシュタイン」とかバンドでも「相対性理論」とか、そうでなくてもわかりやすく相対性理論を解説してくれるような動画もたくさん出ていて「偉人」であるがゆえに「変人」だといったようなゴリゴリの壁はなくなって「よくわからないけどたぶん偉人」ぐらいのポップな感じに受け入れてくれる人が増えていると思う。だいたい「俺は偉人だ。」みたいなスタンスは良くないのではないか。ショッピングモールでも「イオン」とかが普通に使われていて我々は「イオン」「アインシュタイン」「相対性理論」などを違和感なく耳に入れるようになった。実際あんまり毛嫌いしないでほしいと思っている人も増えた。

ところでタイトルの「超弦論」を一言で言ってしまえば、みなさんもよく聞く話かもしれないが「相対性理論」ともうひとつの考え方として「量子力学」がある。それでいて「量子力学」は「相対性理論」とあまり相性がよろしくないといった話だ。おおざっぱに言ってしまえば「量子力学」は「確率」で、「相対性理論」は「距離」である。「距離」と「確率」というあまり「同じように計れそうにない」ものをなんとか同じように計りましょうという試みが超弦論だ。

話は最初に戻るが、私も、たぶん他の誰かも「超弦論の話をされても、そもそも『じゃあわかりやすく説明するよ?』って話を始めた「相対性理論」がそもそもわからない。」ところで「普通の人であろうとする」努力を置いてきてしまうのではないか。だか私は諦めない。まず「量子力学」なのだが、これは先ほど話したように「確率」の話なのだ。つまり値としては「1」なのだ。なんとなく「距離」と全然違うものでもないような気がしてこないだろうか。ちょっと話を拡げてそのまま「距離」を「拡張擬距離」にしちゃいましょうよ。そしたらそんなものが現実になるかもしれないじゃない。それとあと置き去りにしてきたもうひとつタイトル「E=mc^2」だ。何度も見ているこれが相対性理論と何の関係があるのか。「E」はエネルギー。「m」は質量だ。ここでだ。話をちょっと変えて1/2mv^2としてみよう。「m」は相変わらず「質量」だとしていいでしょう。問題は「v」なのだが、これを速度としていいだろう。つまり1/2・質量・速度^2ということだ。これを「エネルギー」としていいだろう。つまりE=1/2mv^2。「v」は「速度」であるので「c」としても良いだろう。E=1/2mc^2。さてだいぶ目的とする式に近づいてきたが、両辺を2倍してみよう。すると、「2E=mc^2」。2Eはエネルギーであるので、ここで「2E」を「E」としてもいいだろう。はなから1/2E=1/2mv^2としておいてもよかった。ここで我々はE=mc^2を手にする。我々はなんとなく相対性理論を「ちゃんと説明できないから嫌だ。」と偉い方に偉い方に考えてしまっていないだろうか。まあ俺はこんくらいに考えている。それでいいのだ。以上。パワーワードを使ったお話でした。

アイゼンシュタイニオイド

望月新一教授の論文がプリムスに掲載されることになったのが4月で、5月に入ってから「飛躍がある」との反応が出た。望月教授のホームページを見れば論文が読めるが、ちゃんと読んではいなかった。というのも「紙の本で読みたい」との思いからプリムスの雑誌を買おうと「PRIMS Mochizuki」などと検索していたりしたからだ。マックは息子が使っているし、長い論文を画面で読んでいると枝折りを挟むことができない。だがしょうがない。スマホで読むことにした。加藤文元さんの本は読んでいたので「ホッジシアター」が出てきたときはふむふむと思った。フロベニオイドもこのくだりで言えば自然な考えだとも思った。フロベニウスをグズグスに崩している。ホッジシアターに関していえば私がホッジ予想について抱いている気持ちとまんまと言っていいほど同じイメージであった。飛躍があると感じるのも無理はないほどモーデルファルティングスのときの高さ的なやり方とは程遠い。ニュー言語のオンパレードだ。だが完全に自然な考え方だ。

だが私は感じでしまったのだ。「ホッジに触るな。」と。宇宙際タイヒミュラー理論はその大きな一歩に過ぎないんだろうと。というよりはホッジシアターなのでむしろ「見て」しかいない。それこそホッジは遥かに美しくなった。そこで私は考えた。アイゼンシュタイニオイドもあるのでは?と。私のイメージではホッジは痛みを伴ったキリストなのだ。「6」はなんだか仏像にむしゃぶりついた何匹かの餓鬼がいるアイスを誰かが舐めているようなイメージだ。むろん仏は怒らない。だが私は「6」を完成させたい。アイゼンシュタイニオイドがあればそこに近づけるのでは?それは水かもしれない。そしたらホッジは全てから解き放たれて世界中に溢れる。

とまあこんな理念を語ったところで太陽の寿命はあと50億年ぐらいと言われている。なんか燃え尽きてしまうと言われると怖い気もするが我々がソーラーシステムを飛び出す日もそう遠くはないだろう。エントロピーを度外視すればポケット太陽だって作れちゃいそうだ。だが我々が生まれた地球での想いを忘れてしまったらそんなに遠くまではいけないかもしれない。太陽よりも大きな存在を我々は神と呼んでいるとモハマドさんは言っていた。過ぎたるは及ばざるが如しと孔子は言う。新しい生活様式、ステイホームの今ならコンビニに歩いて行く途中の草もかわいいではないか。