地球を土足で歩いてはいけない。

この言葉は科学者に向けられたものだ。医者でもない。我々の中に医者を「人間」だと思っている人はどれだけいるだろうか。当て付けに「あいつは偉い」と思っていないだろうか。それでも医師はやっていけるかもしれない。それが人間の感情だと言えばそうだろう。どんどんぶち撒ければいいのかもしれない。いつか有名になったエホバの証人の輸血問題を覚えているだろうか。エホバの証人は輸血をしないので無断で輸血をした医者は悪いという結果だ。いまは無輸血手術の技術もだいぶ論文が蓄えられてきて手術可能な医者も増えてきた。ある程度までは。手術箇所が2カ所3カ所になると普通の手術でさえ難易度は高くなる。無輸血であれば1度に手術することはさらに困難になる。だが技術が進歩したことによりエホバの証人はなお「自由」になった。信仰を無我にはされなくなったのだ。ある意味我々全体が自由を享受できるその原動力となったものだ。一方で科学者はその頭の中で太陽の核融合さえも上回る「モノポール」たるものを考えていたりする。「夏は熱い」と考える人は多いかもしれないがモノポールを使えば太陽を早く燃え尽きさせることができる。むしろ爆発する。その場所は涼しくなるだろうが地球は跡形もないだろう。このように我々にとって当たり前だと思っている「太陽」「月」「水」と言ったものを跡形もなくする考え方を科学者は頭の中に描いている。もう何度地球を粉々にしたかわからない。冗談ではなく我々の生活はこういった科学者の手に委ねられている。政治に関心があるないに関わらず税金は取られてこういった最先端同士の交わりに我々の関心はコントロールされバッティングする。コントロールするのは人格ではなく状態なのだ。あたかも我々はその状態を総理大臣なり一人の人格に収まっていることを望む。地球を土足で歩いてはいけない。もともと私は土足で歩いていないがどうやら私個人として土足であるくことは私個人の思想とバッティングするらしい。慎むといえばそうなのかもしれないが要は「人の許可なく地球にタッチできない」のだ。責任があると言える。純系外資源ステーションと言えば聞こえがいいかもしれないが、みなさんは地球が太陽の陰に隠れる「地球食」を見たことがあるだろうか。ないだろう。そもそもあんたどこにいるんだ?って感じだろう。だが人の潜在意識の中で例え仮様であっても地球が太陽の陰に隠れるのは怖いのだ。それは地球が太陽に飲み込まれたように見える。だいたい人はそれを見たことがない。つまりその遠近感が我々の意識になかったのだ。「国のために」と思う気持ちはご存知の通り世界ではバッティングしている。ただ昔の地球にはなかった「家族のために」という想いさえ今はバッティングしているのだ。政治がバッティングしている。ましてや江戸時代の「上様」などという気持ちは出だしからバッティングしているのだ。老害だと言える。話は最初に戻るが医者を「上様」だという気持ちもかなり地球に負担を掛けているのではないか。その肘を支えているのは結局我々なのだ。そのソファーもだ。「純系外資源ステーション」などと言えば「どうぞ勝手に行ってください。」と言いたくなるかもしれないがある意味「農学」だと言える。米もキリストの痛み分けも他人事ではない。