重金属のようにやっかいなものは宇宙である

重金属は我々が好むと好まざるに関わらず、ゼータ生成のように我々の命を引っ張ってきた。多くは我々の命を脅かす存在であるにも関わらずだ。これと同じように我々を駆り立てているものの存在が、宇宙だ。当然のように宇宙空間そのものは我々が耐えて生きていける場所(代物)ではない。だが、その極限の場所として、中性子星ブラックホールなど、我々の必須の携行品として養われてきた量子力学を発展させるスペースとして、それが存在することも事実だ。我々はもともとお花畑に住みたかったのだ。かもいとおしきかもしれない、ガニメデやエンケラドスに我々がいま住んでいるような、ドアがあって、あたたかいダウンライトで照らされているような安全な住まいを築くことができたら、どれほど好ましいことか。もはや宇宙全体がお花畑といっても過言ではない。これからの量子力学がどうあるべきか。それを私は問いたいのだ。ある意味人の野望というものは低級な人種に収まることなのかもしれない。もともと高望みなんかしちゃいない、陽キャにもなれなかった人間が、宇宙のアイデンティティーだなんだといって遥か高いどこかしらの惑星にエッフルタワーを作りました、といって、ほんとに望んでいることは、誰かしか、こころ通わせるような何気ない会話をしてみたいだけかもしれない。(どこの惑星の)どこをどう切り開こうが、いつまで経ってもこの地球が我々の宇宙の胴体部分であることは変わりないし、地球環境がサイクリングできないものは、どの惑星に手を伸ばそうとその環境をサイクリングすることはできない。ただ我々が知っている量子力学は、まだほんの部分にすぎないということだ。実在する一本の線がなんであるかまで、われわれはまだ知ることができていないのだ。線をまたぐ、という行為も、しなくても済むものなのかどうなのかさえわかっていない。わかっているのは『だれかにとって貴重な線』というものは存在するということだ。明日嫌な仕事に行くことすら、貴重な線であるかもしれない。それだけ『社会という塊』とその人の体の表象というものはちがっているのだ。その社会を醜くしているものはなんだ?