アイゼンシュタイニオイド

望月新一教授の論文がプリムスに掲載されることになったのが4月で、5月に入ってから「飛躍がある」との反応が出た。望月教授のホームページを見れば論文が読めるが、ちゃんと読んではいなかった。というのも「紙の本で読みたい」との思いからプリムスの雑誌を買おうと「PRIMS Mochizuki」などと検索していたりしたからだ。マックは息子が使っているし、長い論文を画面で読んでいると枝折りを挟むことができない。だがしょうがない。スマホで読むことにした。加藤文元さんの本は読んでいたので「ホッジシアター」が出てきたときはふむふむと思った。フロベニオイドもこのくだりで言えば自然な考えだとも思った。フロベニウスをグズグスに崩している。ホッジシアターに関していえば私がホッジ予想について抱いている気持ちとまんまと言っていいほど同じイメージであった。飛躍があると感じるのも無理はないほどモーデルファルティングスのときの高さ的なやり方とは程遠い。ニュー言語のオンパレードだ。だが完全に自然な考え方だ。

だが私は感じでしまったのだ。「ホッジに触るな。」と。宇宙際タイヒミュラー理論はその大きな一歩に過ぎないんだろうと。というよりはホッジシアターなのでむしろ「見て」しかいない。それこそホッジは遥かに美しくなった。そこで私は考えた。アイゼンシュタイニオイドもあるのでは?と。私のイメージではホッジは痛みを伴ったキリストなのだ。「6」はなんだか仏像にむしゃぶりついた何匹かの餓鬼がいるアイスを誰かが舐めているようなイメージだ。むろん仏は怒らない。だが私は「6」を完成させたい。アイゼンシュタイニオイドがあればそこに近づけるのでは?それは水かもしれない。そしたらホッジは全てから解き放たれて世界中に溢れる。

とまあこんな理念を語ったところで太陽の寿命はあと50億年ぐらいと言われている。なんか燃え尽きてしまうと言われると怖い気もするが我々がソーラーシステムを飛び出す日もそう遠くはないだろう。エントロピーを度外視すればポケット太陽だって作れちゃいそうだ。だが我々が生まれた地球での想いを忘れてしまったらそんなに遠くまではいけないかもしれない。太陽よりも大きな存在を我々は神と呼んでいるとモハマドさんは言っていた。過ぎたるは及ばざるが如しと孔子は言う。新しい生活様式、ステイホームの今ならコンビニに歩いて行く途中の草もかわいいではないか。