尾崎は運転手に「お前もカネかッ!」 と叫んでは 車内に一万円札をばら撒き、 運転席を後部座席から蹴飛ばした。

1992年(平成4年)4月25日、早朝の足立区千住河原町の民家の軒先に全裸で傷だらけで
倒れていたところを住人に発見され、通報で病院に運び込まれる。
体が傷だらけだったが診察した医師は深酒のみという診断で尾崎は妻とともに自宅マンションに戻る。
しかし、午後になり呼吸が止まっているのに気がついた家族が救急車を通報したが、
搬送先の日本医科大学付属病院で死亡した。

他殺の疑惑
尾崎の遺体には暴行を受けたような傷やあざもあり、亡くなった日の状況が
きわめて不自然であることから、他殺とする説もある。
しかし警察は、状況捜査や司法解剖を行った結果から「事件性なし」として調査を終結している。
尾崎豊が亡くなってから約2年後に、10万人近くの尾崎ファンの署名を集めた
再捜査嘆願書が警察に提出されたが、受理されなかった。

7年後の1999年には写真週刊誌『フライデー』に蘇生措置を施している様子の写真が掲載され、
当時の捜査員の証言などもあって、その死因の不可解さが深まった。
だが、検死をした支倉逸人の著書によれば、擦過傷と打撲傷をじっくり調べた結果、
他殺をうかがわせるようなものはなかったとの記述がある。
またそれを裏付ける、転倒したり暴れて転げ回っていたという証言がある。
だが、はっきりしたことがわからないため、今までに尾崎の生涯を描いた
多数の漫画作品やテレビ番組においても、尾崎が死んだ様子は全く触れられていない。

あの日…
尾崎は後楽園の近くで夫人とパーティーに出席。
パーティーが終わった21時半ごろにホテルの喫茶室へ行くと、
そこで偶然に旧友と鉢合わせる。尾崎は子供ように喜び、
「遊ぼう、遊ぼう」とはしゃいだという。ここで夫人と別れて、
尾崎は旧友たちと芝浦のバーへと飲みに繰り出している。
そこで日本酒を水のようにガンガンと煽り、
かねてより報じられていたように酒癖の悪さが出る。

芝浦のバー店内で、通りかかった店員に殴りかかり、
仲間たちが慌てて尾崎を制止したという。
既に尾崎の目は据わり、
いつもの酒乱のケが出始めていたという。

日付が変わって午前1時30分頃、
芝浦のバーを出てタクシーに乗り込む。
ここでも尾崎はタクシーの運転手に絡んでいる。
「今、通り過ぎた牛丼屋に戻れ」と尾崎が言うも、
「Uターンは禁止だから」と断わった
タクシー運転手に腹を立てなじったという。
尾崎は運転手に「お前もカネかッ!」
と叫んでは
車内に一万円札をばら撒き、
運転席を後部座席から蹴飛ばした。

1992(平成4)年4月25日午前5時45分ごろ、尾崎は自宅マンションから約500m離れた足立区千住河原町の民家の庭で転倒、全身創痍・全裸のままで住人に発見される。119番通報で墨田区内の白鬚橋病院に搬送、診察を受けるが、妻・兄と共に自宅マンションに戻る。だが、10時ごろに容体が急変、呼吸停止したため、11時9分に119番通報。搬送先の日本医科大学付属病院で治療を受けるが、午後0時6分に死亡する。

 死因は、致死量の2.64倍以上の覚醒剤メタンフェタミン)のオーバードーズ(多量摂取)による肺水腫と診断される。春雨のそぼ降る中、東京都文京区の護国寺で執り行われた葬儀・追悼式におよそ4万人が参列。密葬は日蓮正宗で営まれる。戒名は「頌弦院智心碩豊居士」。墓所は埼玉県所沢市にある。

 尾崎の死因については、様々な異論や疑惑が取りざたされることがある。なぜか?

 発見当初は、事件性がないため行政解剖が行われる予定だった。だが、全身にすり傷があり、右目の上にコブもあることから、千住署、警視庁、検察庁が協議の末、司法解剖に切り替える。東京監察医務院の医師らが検視・解剖した結果、死因は肺に水がたまる肺水腫であると発表される。

 しかし、2年後の1994年、尾崎の体内から検出された覚醒剤に言及した司法解剖の結果を記載した「死体検案書」のコピーがマスコミに流出。当初の司法解剖の結果に疑念が生まれる。検死を担当した司法解剖医の支倉逸人によれば、死因の肺水腫の原因が覚醒剤中毒である事実は伏せられたが、内臓も覚醒剤を経口摂取した形跡があり、肺にも覚醒剤中毒の症状が見られたという。

 また、他殺の疑惑もある。尾崎の遺体には全身に多数の擦過傷と打撲傷があった。だが、検死した支倉逸人によれば、擦過傷と打撲傷を調べたところ、暴行によって生じる傷害と異なる状態であり、頭部の外傷性くも膜下出血も極めて微量の出血のため、死に至るほどの重症ではないと結論づけている。支倉逸人によると、覚醒剤の致死量は個人差が大きく、薬殺の手段として用いるには酒と同じくらい不確実性が高いと述べている(支倉逸人『検死秘録』より)。

 さらに、2011年11月10日発行の文藝春秋に「遺書」全文が公開されるが、父・尾崎健一は、尾崎の遺書である事に疑問を払拭できず、「いまとなっては、他殺だとは思ってないけど、あれは自殺ではない。豊じゃないからわからないけど、なんで死んだんだって…いまでも思ってます」と自殺を否定している(尾崎豊の遺書公開に実父「本当の遺書?」「自殺じゃない」 NEWSポストセブン2011年11月18日)。

 何れにしても、このような様々な異論や疑惑は、確証するに十分な根拠に基づいて論証しなければならない。したがって、ネット上に流れる信憑性のない憶測や推定は、死因の事実を覆す明白な根拠がない限り、尾崎の死因は揺るがないだろう。
 

先立つ不幸をお許しください。
先日からずっと死にたいと思っていました。

死ぬ前に誰かに何故死を選んだのか話そうと思ったのですが、そんな事出来るくらいなら死を選んだりしません。ただ死という状況が瞬く間に訪れるのです。

生と死を知り、生を葬るのです。
生と善意はあれど死を感ずるところ、ただ失意の如くに死に向かい今、人の群棲を歩き、痛み、ただ雨の如し

思いう虻まだ浅き月日おも人の言う己を語り尽すには足らず。
最果ては全てを許したいけれど、その余り今なお生きる我に痛みの雨ぞ降りて折り、あなたの歌が聞こえてきます。

まだ若かった頃のあなたの声があなたのぬくもりが甦ってきます。
さようなら、私は夢見ます。
この遺書は尾崎豊さんのセカンドバッグから発見されたそうです。破ったB5のルーズリーフに書かれていたとか。いつ書いたのかは不明で、亡くなる3年前に自殺を図ろうとした時に書いたものではないかと尾崎豊さんの父はおっしゃっています。

今の悲しみに真のあなたの美しき綺麗な優しさを覚えます。
やがてこの暮らしを鏡として、そしてあなたを求愛し貴方を幸せに導きます。

私たちの愛に育まれる天使、裕哉を天命の元に敬愛します。
あなたは天命たる天女、そして天命たる女神、子はその道のもとに生まれたる天使。

やがて世の幸を待つ人々にとって使徒となるものたちが私たちの為に幸働く日が来るでしょう。
その日のためにあなたをこよなく愛します。

あなたを生涯守ります。
あなたに世界、そしてこの世の全ての幸せとなる尾崎豊より捧げます。​

天の女神、そして天の使徒を守る天の子、そして幸を待つ人々のために。
繁美、あなたは本当に女神なのですよ。

裕哉、あなたは間違いなく天使なのですよ。
私はただ、あなたを愛し続ける名の神であり続ける。
皆の言うことをよく聞いて共に幸になってください。
血判と『愛してます』と血で書かれた文字で結ばれているそうです。この遺書は死後1か月たって尾崎さんの自宅から発見されたとのこと。

この遺書を書いて自殺したのかは疑問があると、尾崎豊さんの父と兄はおしゃっています。本当に尾崎豊さんが書いたものなのか、また、いつ書いたものなのか確定はされていません。

尾崎さんに父の話では、尾崎豊さんが2度ほど自殺を図ろうとしたのは事実のようですね。感受性豊かで、強いようでいて繊細でもろい部分があったのでしょう。

薬物の過剰摂取が原因で引き起こされた中毒による肺水腫
外傷性くも膜下出血
アルコール中毒に近い状態
集団リンチを受けたようにも向けられることから他殺の説
苦しんで自分で転げ回ってできた傷と言う説