路上に翻す風のように

Em9路上に翻す風のC#7(Bm7)ように。ビルに当Am7-5(G)たって吹き溜(Dmaj7)D#m7-5まった。Em910万年後の未来に聴こえる(Bm7)Am7-5声で。Dm7-5(G)もう一度C#7(Dsus4)通り抜けて。屋根も。風も。水面の。ボートも。壁に。当たり。上向きながら。屋根も。屋上も。風も。ボートも。越えて。飛んでった。

「見られたい」という気持ちにも危険性が孕んでいる。

「見られたい」という気持ちにも危険性が孕んでいる。「万人に」といって岡のものから山のものまで万人に見られたいというわけじゃないし、「万人が万人」発信者が望んだような「見方」をしてくれるとは限らないのだ。むしろ逆だ。誰もが「自分の利益になるように」発信されたものを見るわけだし、そのような「一見見えない空気」の中で発信した方も本来求めていたようなものとは受け取られ方との相互作用が変わっていく。このような世界は本来あるべきような「生命を維持したい」欲求を叶えるものではなく多分にも「受け取った者」の指向が「望むよりも多く」入ったものであるし、そのような収束値を取るように最終的には収まっていく。重要なのはこういった作用をそのものわかっていることであるし、単純に「万人」といってもそれはグラデーションのかかったものである。技術者もいれば文系の者もいるだろう。曲がりなりにも私としてはこういった多少文系分野の人との作用をも併せ持つような、それでいて新しいみずからの数学分野をこの作用を踏まえつつ切り拓いていけるような人物の育成に指向されたもので、私とまわりの世界を豊かにしていきたいと思っている。代数的組み合わせ論という非常に小さな数学から入っていくのが、新たな数学に興味をもってほしい人へのヒントになるのではないかと考えている。「バカな人にはバカでいてほしい」というのがロシアや中国のトップの考えであるが、世界がそうであるように身の回りの上層部にも程度や数は減ってはいるが、こういう輩がいるものである。単純に「わからない」とされている数学の話をしてもこうゆう輩に支配された最終的な局面を打開していくのは難しいだろう。ある程度興味をもってもらってすぐに直感的にもわかって明日からいますぐにでも明るい前向きな気持ちになって身の回りのことから変えていけるようなコンテンツを提供していきたいものである。

高専組合

技術があって人にできないから食えるのではなく、それはもともとあったものが守られるからだ。技術によって他人を変形できるとは傲慢すぎる。それはもはやその人が「量産型」のものであり、決してその人のもともとあった形が認められたものではないのだ。しかるに技術を人に寄せ付けぬようにするように「特許」といったもので守られた「人と人との争い」の中に肉団子ように置かれるのである。技術はその人を体現したものではないのだ。増して人を侵食する危険なものである。そのような技術をもった人が高専組合によって形を歪めるのである。必要なのは組合から人を守る結びの多様化であるのだ。工場作業員をつくることではないのだ。いまあるような組合の形を。多くのことが個性を消滅させたなかに体現されるのはいまのリー環の不完全性を物語っている。我々が作るべきものは機械ではなくあるべき人のリンクなのだ。これはリー環のテータリンクとして表現されるべきなのだ。工場を維持するべくその工場は個性が失われているのだ。技術者は特許の海に巻き込まれてはいけない。特許に個性はないのだから。ならばあなたはその企業をテータリンクが許す方まで引き寄せるべきなのだ。新たなリンクを作り出したならその企業はむしろあなたの方である。そういえるような企業の「形」などひとつもない。弁護士に頭を下げてあなたはあなたであることを放棄するのか。粘性と破力をもったあなたの言葉だ。あなたは誰の組合でもない。

宇宙際タイヒミュラー理論で拡張されたはるかに豊かな拡張性と結び付きをもつリー環による社会

演算消去演算もまさに人との関係の中で生まれる。合う人合わない人といえばまさにそうなのかもしれないが。いままで人類が培ってきた「リー環」がすでにいまの人のリー環に合わない。というのも「普遍性」を強調しすぎたゆえ、誰もその実、すべての普遍性を満たすようなリー環をもたないからだ。このなかでどのようにして「ある程度の」普遍性を満たすようなリー環を形成していくか。全体が『緩く』結びついているからこそ『全体として』リー環が壊れないのだ。ある意味いまのリー環すべてに『宇宙際タイヒミュラー理論による拡張』が必要である。我々はリー環はいままで構築してきたような「硬直的なもの」ではなく緩く結びつくような「テータリンク」のような評価がなされるべきだ。その評価によってリー環は「ほとんど似かよったもの」でもいままでの評価であれば「まったく違ったリー環」であったかもしれない。このようなリンクの評価と評価が無数に重なりあうなかで『こちらとこちらはエルミートである』といったような《評価によってことなるエルミート》が形成される。その連続的なうつり変わりが《社会》であり、《全体として拡張されうるリー環》であるとかんじられる。個々のリー環で考えうるより宇宙際タイヒミュラー理論で拡張されたリー環ははるかに豊かな拡張性と結び付きをもって我々の社会のサステイナビリティーを保障しうると信じている。私もそういったものでありたい。硬直的なものでなく。あるいは呼吸といった作用。我々は我々にとって「純粋でない」と評価されたものを呼吸されうるのか。非常に簡略化された演算消去演算によってそれを我々が呼吸されうるまで純化しているのではないか。我々の脳は「糖分しか取れない」ときく。それも「D-体の糖分」だという。我々は我々が死ぬような環境を受け入れうるか。つまりは食べれない酸素を吸って吸えない糖分を吸えるか、ということだ。たしかに我々が拡張した宇宙は意志の統一がなされるならガニメデまでに伸びたエウロパを住める環境へとインフラストラクチュレイトするものであろう。そこまでの設備に人類全体の設備投資がなされないのは我々の意志全体がそこまで柔軟で緩く結びついたものでなく、硬直的に結び付けられたものであるからだ。すなわち我々のリー環宇宙際タイヒミュラー理論で拡張されたはるかに豊かな拡張性と結び付きがなかったのだ。

粘性にあたいするような人の性(相)

単純なものから単純なものに移動して。それが人の性(相)。内部にあるものははじめからない演算消去演算。はじめからないから気づかない。粘性にあたいするような人の性(相)その中を通り抜けるだけの性(相)重なり具合を纏って。あなたはあなたでいられる。最後まで。俺はイケメンであると人はいった。それはまさにそうで。破力と粘性が作用するところ。愛される特性を人は纏って。生まれてきた。親が嘘をついたから。正当な金をもってこなかったから。私の破力と粘性は演算消去演算へと変わった。好きに思っていいと。相手にもそう思ってもらえる。真実がいつか伝統に変わったとき。私はもうしばらく生きれるだろう。単純なものから単純なものに移動して。君かわいいねというのは。君かわいくないという要素を取り除いたもの。

下の奴

包まれるような声を。命を。自分がそうゆう存在になったんだから。それでも祈ることを忘れちゃいかんよ。こころ馳せても想う気持ちは同じ。そういいたい。ひとつ穴が開いたら。生きることはたやすい。その人にとっては。それが愛。君への負担はどうするか。金くれ?そんな時間にも空間にも空隙があるなら。だって人を追いつめた。俺を好きな100の理由。もっとファブリックスペースな話を。人を追いつめるアナタはなにもできやしなかった。公務員だなんだと。自分がロクなことしちゃいなかった。穴が欲しいだけの。それが下の奴だって話。