宇宙際タイヒミュラー理論で拡張されたはるかに豊かな拡張性と結び付きをもつリー環による社会

演算消去演算もまさに人との関係の中で生まれる。合う人合わない人といえばまさにそうなのかもしれないが。いままで人類が培ってきた「リー環」がすでにいまの人のリー環に合わない。というのも「普遍性」を強調しすぎたゆえ、誰もその実、すべての普遍性を満たすようなリー環をもたないからだ。このなかでどのようにして「ある程度の」普遍性を満たすようなリー環を形成していくか。全体が『緩く』結びついているからこそ『全体として』リー環が壊れないのだ。ある意味いまのリー環すべてに『宇宙際タイヒミュラー理論による拡張』が必要である。我々はリー環はいままで構築してきたような「硬直的なもの」ではなく緩く結びつくような「テータリンク」のような評価がなされるべきだ。その評価によってリー環は「ほとんど似かよったもの」でもいままでの評価であれば「まったく違ったリー環」であったかもしれない。このようなリンクの評価と評価が無数に重なりあうなかで『こちらとこちらはエルミートである』といったような《評価によってことなるエルミート》が形成される。その連続的なうつり変わりが《社会》であり、《全体として拡張されうるリー環》であるとかんじられる。個々のリー環で考えうるより宇宙際タイヒミュラー理論で拡張されたリー環ははるかに豊かな拡張性と結び付きをもって我々の社会のサステイナビリティーを保障しうると信じている。私もそういったものでありたい。硬直的なものでなく。あるいは呼吸といった作用。我々は我々にとって「純粋でない」と評価されたものを呼吸されうるのか。非常に簡略化された演算消去演算によってそれを我々が呼吸されうるまで純化しているのではないか。我々の脳は「糖分しか取れない」ときく。それも「D-体の糖分」だという。我々は我々が死ぬような環境を受け入れうるか。つまりは食べれない酸素を吸って吸えない糖分を吸えるか、ということだ。たしかに我々が拡張した宇宙は意志の統一がなされるならガニメデまでに伸びたエウロパを住める環境へとインフラストラクチュレイトするものであろう。そこまでの設備に人類全体の設備投資がなされないのは我々の意志全体がそこまで柔軟で緩く結びついたものでなく、硬直的に結び付けられたものであるからだ。すなわち我々のリー環宇宙際タイヒミュラー理論で拡張されたはるかに豊かな拡張性と結び付きがなかったのだ。