空を飛べば目的地まで引かれるのではないか。つまり、アイゼンシュタイニオイド。三角形図の中を我々は移動している。なかなか量子力学的にそれを側と描くのは難しい。ぼんやりしてそれを対面に描く(量子アイゼンシュタイニオイド)というのはだ。ぼんやりできないかもしれない。ぼんやり浮かぶ桜の木。それを思春期と呼ぶのかもしれないが、わたしの春夏秋冬は逆をいっている。まるで秋冬春夏のように。夏にコタツに入り、冬にステテコを履くかのようだ。我々のファシリティーとはまさにそういうものなのであろう。弓を引くという行為と、時間もそうだ。摩擦もそのようなものだ。オーソドックスに受け入れられるというもののなかに、人を入れるという行為もそうなのであろう。土台に中心力もない。三次元的に考えれば。引き剥がされるコンデンサーのように。三角形図を二次元的に見ているのは、我々が回転盤の天の川銀河にいるからではないか。楕円銀河からみたらまたちがった形にみえるのではないか。かってに我々は倍にする、という行為と、半分にする、という行為を『2』と考えたがる。コンピューターのバイナリーを3進数にするというのはどうか。『0,1,2』と。量子コンピューターで『0』と『1』と『重ねあわせ』が表現できるなら、これも可能ではないか。『バイナリー』にこだわろうとすれば、それはシンギュラリティーに取ってかわられるのではないか。一見ムダなようにみえて、3進数のコンピューターのほうが省エネなのではないか。つまりターナリーコンピューターである。