磁気テープの初期開発段階において、ベースとなるアセテート樹脂の開発を主導したことから「磁気テープはBASF社が開発した」と言われることがある。Badische Anilin und Soda Fabrik

デュポン(Du Pont)は、アメリカ合衆国の化学会社。規模は世界第9位・アメリカで第3位(世界最大はBASF)。[4] 石油会社を除けば時価総額ベースでは世界で四番目に大きい化学会社である。なおアメリカ国内では英語読みで「デュポント」と発音される。

正式社名はE. I. du Pont de Nemours and Company(イー・アイ・デュポン・ド・ヌムール・アンド・カンパニー)で、本社はデラウェア州ウィルミントン市に存在する。

創業は1802年。資本金は111億3600万USドル。創業者はフランス出身のユグノーでエミグレ(フランス革命後に国外へ逃亡した人々)であるエルテール・イレネー・デュポン(1771年 - 1834年)。メロン財閥、ロックフェラー財閥と並ぶアメリカの三大財閥と称されることもある。

Safety(安全)、Health(健康)、Environment(環境)、Ethics(企業倫理)を企業理念としている。

エルテールの祖父はユグノーの時計職人で、父は経済学者で政府の官僚にもなったピエール・サムエル・デュポン・ド・ヌムール(Pierre Samuel du Pont de Nemours)であった。フランス革命を避けて、1799年に一家でアメリカに移住したエルテールは、アントワーヌ・ラヴォアジエに師事し化学知識があり、黒色火薬工場としてデュポン社を設立した。当時アメリカで生産されていた黒色火薬はきわめて粗悪であったため、ビジネスは成功した。徹底的な品質管理と安全対策、そして高品質によりアメリカ政府の信頼を勝ち取り、南北戦争で巨利をあげた。やがて20世紀に入りダイナマイトや無煙火薬などを製造するようになった。第一次世界大戦第二次世界大戦では火薬や爆弾を供給したほか、マンハッタン計画に参加しワシントン州ハンフォード・サイト、テネシー州オークリッジ国立研究所ウラニウムの分離・精製やプルトニウムを製造するなどアメリカの戦争を支えた。

デュポン家からは、海軍軍人サミュエル・デュポンらが輩出した。またデュポン家は草創期の自動車産業に着目し、1914年にはピエール・デュポンが1908年に創業したゼネラルモーターズGM)に出資した。後に彼は社長に就任し、彼の指揮とデュポン社の支援の下、ゼネラルモーターズは全米一の自動車会社へと成長した。また、GM支援とは別に、1919年から1931年にかけては、自社での自動車製作もおこなった。エンジンは主にコンチネンタル社製を使用した。デュポン社とGM社のこの関係は、1957年に反トラスト法によってデュポン社がGM株を放出するまで続いた。

1920年代以降は化学分野に力を注ぎ、1928年には重合体(ポリマー)の研究のためにウォーレス・カロザースを雇い、彼のもとで合成ゴムやナイロンなどが発明された。さらにテフロンなどの合成繊維、合成樹脂や農薬、塗料なども研究・開発し取り扱うようになった。一方、第一次世界大戦の賠償として接収ずみのデグサNYを1930年から2年ほどかけて買収した。

2世紀にわたる歴史の中で絶えずM&Aを通じて事業を再編し続けていることでも知られ、前述のGM保有の他、大手石油会社のコノコ社を傘下に入れていた時期もある(1999年に売却、コノコはその後フィリップス石油と合併し現在のコノコフィリップスに)。近年はナイロン事業や医薬品事業などを売却する一方、農業科学・栄養健康・産業用バイオサイエンスなどの高成長分野に注力しており、モンサント社シンジェンタ社と並ぶ大手種子会社としての顔を持っている。

2015年12月11日、ダウ・ケミカル社との対等合併を発表。売上高ベースで900億ドル、時価総額ベースで1300億ドル規模の世界最大の化学会社が誕生することとなった。[5]統合新会社の社名はDowDuPont「ダウ・デュポン」となり、統合後農業関連会社、素材科学会社、特殊化学品会社の三つの会社に分割される予定である。[6]

デュポン社は化学製品の開発を通じてアポロ計画の成功にも寄与し、その研究開発の熱心さや新素材開発への貢献は高く評価されている。

しかし環境問題ではデュポン社の製品が問題になったことがある。例えばテフロン製造に伴い使用されるペルフルオロオクタン酸(C-8)の健康への危険性(発がん性など)を隠して作業員などに健康被害を起こしたことで合衆国の環境保護庁(EPA)に訴訟を起こされた。また、ゼネラルモーターズとともにフロン類(クロロフルオロカーボン、CFC)の発明・製造を行い、長年にわたって市場シェアの多くを占めてきた。オゾン層破壊と温室効果が問題になった1980年代末になってデュポンはCFCの製造販売からの段階的退出を表明したが、1990年代半ばまで製造を続けていた。その後はハイドロクロロフルオロカーボン(HCFC)、ハイドロフルオロカーボン(HFC)などの代替フロン開発を進めCFCからの置き換えのリーダーシップをとっているが、HCFCやHFCにも高い温室効果があることが問題視されている。

ザ・ダウ・ケミカル・カンパニー(The Dow Chemical Company、NYSE: DOW)は、アメリカ合衆国ミシガン州ミッドランドに本拠を置く世界最大級の化学メーカーである。

1897年に漂白剤と臭化カリウムの製造メーカーとして誕生した。1999年にはユニオンカーバイドを930億ドルで買収し、デュポンに代わり世界最大の化学メーカーとなった。2008年にはイオン交換樹脂の製造で世界トップの無機化学メーカー、ローム・アンド・ハース(Rohm and Haas)を188億ドルで買収した。

ダウ・ケミカル日本 株式会社 - 同社(以下、米国本社)の日本法人。但し、当社は事業会社(米国本社関連商品の輸入販売が主体)であり、日本の合弁事業については同社を通して出資することはまずない。
ダウ化工 株式会社 - 住友化学との共同出資。米国本社独自の技術が採用されている建築資材・スタイロシリーズの製造・販売会社。
東レ・ダウコーニング株式会社-東レとの合弁会社シリコーンを中心とする素材の研究開発、製造、販売。
ローム・アンド・ハース電子材料株式会社 - 旧ローム・アンド・ハースの完全子会社。プリント基板用のめっき薬品の製造・販売を行っている。
ローム・アンド・ハース・ジャパン 株式会社 - 旧ローム・アンド・ハースの日本法人。イオン交換樹脂や接着剤などの製造を日本国内三箇所の工場で行っている。
ローム・アンド・ハース電子材料株式会社 - 旧ローム・アンド・ハースの完全子会社。プリント基板用のめっき薬品の製造・販売を行っている。
ニッタ・ハース 株式会社 - ゴムベルトメーカーのニッタと旧ローム・アンド・ハースの合弁企業。シリコンウェハー用の研磨パッド・研磨剤の製造・販売を行っている。
ダウコーニング - コーニングと折半出資の元合弁企業で2016年よりダウの完全子会社。シリコーンなどの製造を行う。

旭ダウ - 旭化成工業(現・旭化成)との合弁企業で、サランラップなどの製造発売元だったが、1982年に合弁を解消し、法人としては旭化成工業に吸収合併された。
住友ダウ - 住友化学との折半出資。2010年9月末にダウ・ケミカル保有の同社株式をスタイロンホールディングB.V.へ譲渡、2011年4月に住化スタイロン ポリカーボネート株式会社へ商号変更。なお旧会社(旧住友ダウ)については日本A&L(住友化学三井化学の合弁(出資比率 - 17:3))も参照。
株式会社NUC - 東燃化学とユニオンカーバイド(のちに同社が買収し子会社となる)の共同出資。2013年7月に東燃ゼネラル石油の完全子会社化。旧「日本ユニカー」。
ニチゴー・モートン株式会社 - 日本合成化学工業と旧ローム・アンド・ハースの合弁企業。プリント基板用の保護フィルム・樹脂の製造販売を行っている。
東洋モートン株式会社 - 東洋インキ製造と旧ローム・アンド・ハースの合弁企業。包装資材用接着剤の製造・販売を行っている。

BASF(ビーエーエスエフ、独: BASF SE)は、ドイツ南西部のルートヴィヒスハーフェン・アム・ラインに本社を置き、150年の歴史を持つ世界最大の総合化学メーカーである。フランクフルト証券取引所、ロンドン証券取引所上場企業(FWB: BAS、LSE: BFA)。スイス証券取引所にも上場しており、ニューヨーク証券取引所東京証券取引所にもかつて上場していた。

カール・ボッシュハーバー・ボッシュ法を発明した老舗である。第二次世界大戦前はバイエル、ヘキスト(現サノフィ・アベンティス)と共にIG・ファルベンを構成した事業体の一つであり、分割後もドイツ三大化学メーカーの一角を占めていた。主力製品は伝統的な化学品・農業関連製品にとどまらない。戦後、石油・ガス事業へも進出した。今ではプラスチック製品・高機能製品も生産する。BASFのレパートリーはドイツの化学会社でも特に多い。かつては医薬品部門(Knoll AG)も傘下に収めていたが、米国アボット・ラボラトリーズに売却し、現在は扱っていない。2011年度の売上高は735億ユーロ(約8.2兆円)で、85億ユーロ(約9,400億円)を超える特別項目控除前EBITを計上。従業員数11万1千人を超える、世界有数の巨大企業グループである。

「BASF」とは創業時の社名[8]の頭文字を取った略称であった。創業者であるフリードリヒ・エンゲルホルン(ドイツ語版)が事業立上げ当初にSoda(炭酸ナトリウム)を産し、「バーデンアニリン炭酸化工」と名乗った[9]。1973年以降はこの略称であるBASF(ベーアーエスエフ)を正式な社名としている。日本では一般に「バスフ」と読まれることも多く、傘下のレコードレーベル(後述)の日本国内盤(1970年代中期時点ではテイチクが発売)にも「バスフレコード」のカナ表記が見られたが、正式な読みは「ビーエーエスエフ」である。ただし、中国においては「巴斯夫(バスフ)」を現地での社名としている。

1865年 フリードリヒ・エンゲルホルンが、ドイツのマンハイムに旧バーディシェ・アニリン・ウント・ゾーダ・ファブリーク (BASF) として創立[10]。
1869年 ウィリアム・パーキンに先んじてハインリヒ・カロがBASFでアリザリンの商業生産法を開発した。
1880年 ルブラン法によるソーダ生産をソルベー法に切り替え。
1890年 鉛室法による硫酸生産を接触法に切り替え。
1906年 ハーバー・ボッシュ法を開発した。
1913年 オッパウ工場でアンモニア生産を開始[10]。
1925年 バイエルやヘキストなどの化学工業会社とともに合同し、IG・ファルベン (IG Farben) が成立する[10]。
1935年 IG・ファルベンとAEGがオープンリールを初めて開発した。
1952年 IG・ファルベンが解体され、新バーディシェ・アニリン・ウント・ゾーダ・ファブリーク(BASF)として再発足[10]。またロイヤル・ダッチ・シェルと提携し、合弁でライニッシェ・オレフィンを設立した。
1968年 ヘルボルを買収した。
1969年 ウィンターシャルとWyandotte Chemicals Co. を買収した[10]。
1975年 ドラッグストアのブーツと医薬品のKnoll AGを買収した[10]。
1990年 東ドイツ人民公社のSynthesewerk Schwarzheide を支配した[10]。
1999年 ヘルボルをアクゾノーベルへ売却した。
2001年 サプライチェーン・マネジメントにエレミカ(Elemica)というクラウドサービスを採用した[10][11]。
2008年1月14日 BASFはドイツの株式会社法に基づく株式会社(Aktiengesellschaft, AG)から欧州会社 (Societas Europaea, SE) に生まれ変わり、社名を BASF Aktiengesellschaft (BASF AG) から BASF SE に変更した。
同年9月15日 元チバガイギー社の一部事業を買収した。

一昨年より相手方の総会屋に手を焼きながら、1969年にBASFはウィンターシャルを完全買収した。

ウィンターシャルは同族経営の鉱業コングロマリットであり、年総売上高は15億ドイツマルクにのぼった。その2/3は石油・天然ガスの採掘・精製に、また残り1/3は年採掘量100万トン(ドイツ産出量の半分)というカリウム肥料に由来した。ウィンターシャルの石油採掘量はドイツの年総採掘量120万トンの14%を占めた。また、保有する天然ガス田はドイツの確定埋蔵量の26%を占めた。石油精製能力はドイツ全体の7%以上であった。リンゲンではシェルやエッソと、マンハイムではマラソン・オイルと、共同生産していた。さらにアルザスでペック・リン(PEC-Rhin)[12]と合弁の肥料工場をつくったばかりだった。[13]

ウィンターシャルは資産として、給油チェーン アラル株の15%、グアノ・ワークス(Guano Works)株の90%、ゲヴェルクシャフト・ヴィクター株の50%などを保有していた。BASFにとり脅威であったが、BASFが経済力集中排除法の適用を事実上免れたのに対し、ウィンターシャルは国外金融市場から資金調達を制限されていた。ウィンターシャルには持株会社が二つあった。ゲヴェルクシャフト・ウィンターシャルと、ゲヴェルクシャフト・テア(Gewerkschaft Thea)が、CUXEというハンザ同盟時代の単位で保有していた。創業者アウグスト・ロスタークが孫は生まれないと思い、株式資本の50%強である無議決権株をウィンターシャルへ1975年までに譲るという法律行為をしてあった。しかし息子ハインツが再婚して後継者に恵まれたので、法律行為の無効を不毛にも会社と争わんとした。クヴァント家がテア株の1/3を保有する立場から、BASFによる買収を仲介し法律問題を回避したとみられている。ハインツは総株式の50%強を手放す代わりに、12CUXEと現金40万ポンドを得て議決権を留保した。[13]

かつては三菱化学三井化学武田薬品工業や日油との合弁事業も行っていた。 現在は日本法人BASFジャパンの他、出光興産、イノアックコーポレーション、住友金属鉱山や戸田工業との合弁会社も設立している。

1970年代からカセットテープを発売していたが、既に撤退した[14]。なお、磁気テープの初期開発段階において、ベースとなるアセテート樹脂の開発を主導したことから「磁気テープはBASF社が開発した」と言われることがある(テープレコーダ#歴史を参照)。カセットテープは同じドイツの同業者であるアグフア・ゲバルト (Agfa-Gevaert) にOEM供給された。 また、1980年頃までは音楽レコードの制作を行っていた時期もあり、日本ではテイチクのクラシック部門レーベルとしてルドルフ・ケンペ、ローベルト・シュトルツ、コレギウム・アウレウム合奏団などの録音が数多く発売された。

ボッシュの大きな業績は、ハーバー・ボッシュ法によるアンモニアの合成を工業的に成功させたことである。

フリッツ・ハーバーが実験的に成功させたアンモニア合成法は、高温高圧下の大気中でオスミウムを触媒にして水素と窒素を結合させるというものであった。しかしこの方法は、高圧に耐える装置を作らなければならないこと、オスミウムが希少な元素のため高価なこと、水素を大量生産する技術が確立されていないこと、などの問題を抱えていた[149]。

このうち触媒については、同僚のアルヴィン・ミタッシュを中心に様々な試料で調査が進められ、その結果、通常の鉄では効果が無いがスウェーデン産の磁鉄鉱であれば触媒として使えることが分かった[150]。これを受けてミタッシュは、鉄に何らかの不純物が入ることで触媒となるのではと考えて実験を続け、最終的に、鉄に酸化アルミニウムやカルシウムを加えることで、オスミウムと同等のアンモニアが生成できることを発見した[151]。

水素については、熱した石炭に水蒸気を吹きつけて水から水素を得るという水蒸気改質法と呼ばれる方法を採用したが、この方法は有害な一酸化炭素も同時に発生するという欠点があった[152]。これを防ぐ溶液もあるのだが、この溶液は装置に使われている鉄を腐食させてしまう。しかし、研究チームのカール・クラウフは、少量のアンモニアを加えることで鉄を腐食させずに溶液が使用できることを発見し、この問題は解決された[153]。

圧力については、高圧に耐えられる設計のリアクションチャンバーを新たに開発し、大型の機械を2台製作して実験したところ、3日後に2台とも爆発した[154]。装置内部の金属が、弾力が無くなり脆くなっていたためである[155][156]。この原因は、装置の鋼に含まれる炭素が水素と置き換わったためだということが明らかになったが[157]、鋼に代わり得るような強度を持ち、しかも水素の腐食を受けない材料を見つけることはできなかった[158][159]。

そこでボッシュは発想を転換し、鋼の内側に軟鉄の層をはめ込んで、この軟鉄を水素で腐食させてしまうことで鋼を水素から守るという案を考えた[160]。さらに、鋼に穴をあけ、そこから水素を逃がすという案も出した[161]。

ボッシュはこの案を元にした装置を発注したとき、妻に「今日の私は、全く大きなことを見つけたか、あるいは大馬鹿なことをやったのかのどちらかだ」と語った[162]。結果的にこの方法は成功し、BASFはアンモニアの大量生産を現実のものとした[162]。さらに、この成功により高圧化学の分野に新たな道が開かれ、後のメタノールやガソリンの合成にもつながった。この業績によりノーベル賞も受賞している。科学者としてでなく、企業の工業的な業績に対してノーベル賞が与えられたのは、ボッシュが初めてである[163]。