ゆらぎの定理

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ゆらぎの定理がどうもあわない。物理量が交換されると、このようにシーソー機構のように片一方の物理量が爆発的に肥大化していくようにしか思えない。『数式』自体が、現在世界各国で『統一的に』扱われるものであるため、個人の感性《資産》が、統一的にあらわされるエネルギーに、多分にも費やされすぎている気がする。私のように、このように数式を幾何化していくと、世界のアクションが一方的に肥大化した幾何にしかなっていかない。ただ、この肥大化した幾何は『角』をもたない『曲線』であり、見た目には受け入れられやすい、『目にやさしい』ものになっていて、頭痛のたねとはならないものであろう。『最大エネルギーの効率MAXは1/2である』とはいわれているが、のこりの1/2はまさか無惨にも捨てられる情報ではなかろう?われわれは伝えられる情報を無惨にも捨ててしまっていて、その情報が『見えること』としてとらえられるのが、ゆらぎの定理でしかないため、あわないエネルギーがわれわれ人間の中に蓄積されていってしまっているのではないか?それが《平均値をとる》ことのあらわれなのではないか?《平均値》などこの世にないのだと。弁護士だ裁判だと、《目に見える》平均値をとっていくと、結局は法律は悪法のまま、世の中が改善されていくことはないのではないか?受け取りやすいエネルギーのゆくえとはなんなのだろう?『みないでくれ』と目をそらす所存が『手を出す』労力に変換しているのではないか。手につまんだ木の枝は『みないでくれ』『おひねりを乳にはさむ』喜び、といったところか。重金属をつっこまれているようだ。