ごみを生物学的になんとみるか

たとえば蛍光灯のゴミは『ごつごつしたやっかいなもの』である。混ぜればゴミ、分ければ資源というが、分けるということは余分な我々の視力を浪費する。つまりはリサイクルするのにはエネルギーとして〈視力〉を消費しているということだ。であるから、われわれはこれを『見すぎる』のもよくない、ということになる。ただ漠然とわからないほどに眺めていては、多くの人にとってそれは『ごつごつしたやっかいなもの』にすぎない。ただ見すぎればそれは浪費にあわない徒労をぶつけているようなもんである。どうみるか、それがわかって『観る』のが一番よいであろう。土台われわれ生物というものは『ガン見して見える』ような一部の局所的な部位を持たないものなのである。ATPが細胞のエネルギーを作り出しているからってATPが我々の実体のわけでも細胞が我々の実体なわけでもない。そこにある蛍光灯の廃棄物が『観えている』ということは、その『ライフサイクルが見えている』ことに他ならないのだ。そうでなければそれは「ただ単に目に痛いもの」でしかないだろう。私がいう廃棄物は特に化学工場で濃縮された有害物質の廃棄物や出力の低くなった放射性原料などである。これらのなかには『一方通行的な』ライフサイクルしかもたないものも少なくない。また、ライフサイクルが進むにつれて『耐久な』工業製品(たとえば壁の吹き付けに使われる硫化酸素、エコセメントなど)にしか生まれ変われないのも問題なのではないだろうか。ある意味これらのものは『有害』であるがゆえ『反応性に富む』ともいえるものなのだ。スマホの回路に代表されるような半導体へのエッチングなどには強いラジカルをもっているといえる。また、焼却炉はまちが経営する主要な電力機関であるといえる。まさにまちの根幹の事業だ。廃棄物をリサイクルするプロセスには基本的に『つまんでとる』ということができないのだ。あたかも各行程における処理は、より分かることはおろか、リカバリングを行なっているようにみえる。われわれのゴミに対する視力は定かではない。混合されるコストが強い視力をもっているように思える。再度われわれのからだに取り込まれるまで、どうするか。害虫が渦巻く下水路はみれたものではない。分解者たちのわれわれに映る目はいかようであるか。きれいであるに越したことはない。だが、風呂に入りすぎてもダメなように、彼らの営みをプラスととらえる部分も必要であろう。みえないメカニズムはわれわれを助けている。大きな渦のような流れであるが、彼らのほうが営みを育ませているからこそ、われわれのストリームも存在する。生分解はわれわれになにを教えてくれるであろうか。獣の強さと。それはいつもわれわれのそばにあるのだということを。これは火星にいっても金星にいってもかわらないであろう。生分解といったら微生物を想像しがちだが、それだけではない。われわれのラインを踏み越える虫も、糞尿はやがて土に還るのだ。水は生きている。生きているからこそ、その穢れた部分の通り道を我々にみせようとしない。一回転したときに笑ってその姿を注げるのは、下水の路では彼らをも養っているからだろう。