統計多様体

確率的な統計と実際の観測がどうも折りが合わないと思っているのは初学者ならば誰でもそうだろう。だって実際の像はまさに目の前にあるのだから。なぜそこでボレル測度など測度の概念を拡げていかなくてはならないのか。確率多様体が実際の目で観測することと違って思えてならないのだ。これがもし我々の目が不確定性原理を超えて無限に小さい分解能を持つなら無限に小さい時間のシャッターを切っていくらでも遠くの物を観察できそうな気がしてる。それでブラックホールの中のことも銀河系の間隙にあるダークマターの片鱗もダークエネルギーへと変換されていく兆候も過程も観察できてしまいそうな気がしてる。事実我々が持つ分解能はこの統計多様体とガウシアンポールをリムーヴしていく算術多様体との評価との間で日進月歩している。その意味で算術多様体が「実在でない」かといえば全くそうではない。我々が考え得るべき算術は現に物理として常に実現されているのだ。生物はどこか宇宙の一部を切り取って「これが生物である」と言うことはできないが、確かに我々が持つスマートフォンが車に轢かれたからといって我々は即死とはならない。しかし考え方一つで我々の行動は大きく変わる。どれほどか遠くの天体を見ようと思ったとき、我々のピントは必ずしも最高の分解能を備えているとは限らない。それどころかブラックホールの中であるように我々の目では直接見ることは事実上は不可能であるかのようなものも我々はなんとか評価してみせたいと考えるものだ。また我々が受け皿としてしようしているレンズの中身においては空間さえも逆空間となってしまっているのだ。どれもこれもなんとか天体の中にあるたった一本の線を見ようとしてだ。一体どれだけの情報と実像が組み合わさり、また交差し合って像を形成しているというのか。こんな意味でフィッシャー計量のような統計多様体が、あるいはなんらかの方法でもって新たに「測度となった」ものが「実在ではない」などという判断はまさに「その人が何を見ようとしているか」で全く変わっていくものなのだ。このような全く違った測度のアプローチをしたものさえ我々はどこかで「同じ物を見た」あるいは「同じ物の事を言っている」といった認識にいつかは辿り着くことができる。あるいは「同じ認識を持った瞬間があった」などと評価できることはあるだろう。要はなんとかというと、確率的なものと実在のものとは普通にどちらも実在していてその境界線は日に日になくなっていくものなのだろうということだ。離散性を失っていき、また誰かが新たな離散性を作り出す。それこそ爆発的なほどに。こうして我々の目は日増しに良くなっていく。