俺はあまり上手い事を言えてないのかもしれないが、共産主義とは「思想を統制し、国民の口を封じていく」ことにしか映っていないのではないか。それには今ある資源をもとにした算段で、「このぐらい国力を上げていける」といった未来図が根源にあるような気がしてる。言ってしまえば「資源から発せられた言葉」だ。だが金持ちになったからって食い散らかしていいのか。今回の出来事はある意味SDGsから発せられた「自然な要請」であると感じる。その意味で戦争は「私たち一人一人の中にある」。食料価が上がったところで、私たちは「本来食べれるようなものを捨ててしまっていはしないか」「まだ着れれる服を捨ててしまってはいまいか」。いえることは「我々が捨てたゴミは「どこかに消えてなくなる」ものではない」ということだ。資源から発せられた言葉は我々に「バンバン使ってバンバン捨てろ」と言っているようにも聞こえる。甘っちょろい原料から発せられた言葉で、「取ったものがそのまま売れてしまう」なら「今のうちに金を稼いでおかなくてはならない」と我々は原料を動かす前に「人を動かす」ようになってしまう。これが思想の統制に繋がってしまっているのではないか。何度も言うようだが我々が捨てたゴミはどこかに消えてなくなるものではないのだ。どんなにゴミを濃縮しても最後は強烈な弾丸になって誰かがそれを処理せざるを得ないのだ。今はそれが弱い者、女性や子供、貧困者、あるいは上手な言葉を持たない者へと向けられているようにしか思えない。上手な言葉を持っているものは言葉巧みにそれを覆い隠そうと甘い衣をかけて言葉を合成していく。「最後の一人まで犠牲にしない」とはSDGsの「決して実現し得ない」綺麗事などではない。地球から、そして我々地球市民から、「これからの地球」を生きるための要請なのだ。本来の言葉はこちら側にある。ある意味これは我々の思想を方向付けてしまっているものなのかもしれないが、悲しいことではない。生きる道を見出す喜びはむしろこちらの方に多く転がっている。我々一人一人が本当の意味で輝ける本当の意味で一人一人全ての人に開かれた道だ。資源の方にそれがあるとすれば、それは「誰かにとって開かれた道なら誰かにとって閉ざされたような道である」ことを避けては通れないだろう。それが今回の出来事の結果である。空想の中で飛行機を組み立てることは我々全ての人に開かれた道だ。それが私たちの対流を生み出すことを私は心から願っている。それは「動力のない飛行機」であろう。