微分という操作を「変数がある別の変数で表される」操作であると考えたとき、マクスウェル関係式のように∂(T,S)/∂(P,V)=1のようなものだと考えると、「0/0も基本的には1なのではないか」という考えが微分の基本となっているような気がする。「(f(T+h)-f(T))/h」でhを0としたとき、この式は「=0/0」となり、hを1,2とすればそれぞれ「=1/1」「=2/2」となる。ここで考えているhはTとは別の変数であるということである。0以外のhによるとこの変数による答えは常に1であり、この先もずっと1となっていそうだ。すなわち帰納的に考えれば0/0も1であり、代数的には考えないとされる極限として0.00…1/0.00…1を考えてもその答えは1となっていそうである。これを考慮して亀山代数の演算として「3=4=7」とし、最小演算消去演算よりは少し大きい「3-4」などの概念をこの「3,4,7」の関係から消去したとしても、「結局照らし合わせているのが1」なのであるから、その消去した演算は、「たとえば「-」という演算をある代数系から消去しても」その「埋め合わせ」として他の代数系にてある種の掛け算「×」や足し算「+」が追加される、あるいは重複され、または「広範囲な対称性が要求される」ことが微分という操作になるのではないか。つまりはネット上の環境にて「顔面」という要素を軽減させて「声」という要素をフィーチャーしたとしても、消去された演算はリアルを含めた世界で「何かの要素に変換されて」代数系が拡張される必要があるということだ。ガロア体の微分を考えたときにそれはただ「1を1で返す」操作を行なっているに過ぎないのだ。決して要素が小さくなっているわけではない。ただ最小消去演算を考えたときに「何を最小としていけるか」で「消去の必要がある演算」を「できることならいくらでも小さくしていける」「自分にとっては」という作業を与える可能性は、可換な代数を考えたときに大きくなっていくということだ。その意味であなたの考えた「3-4」とエタールや宇宙際で考えた「3-4」やその他の演算とは無関係なものではない。女性は無意識のあいだに「微分作用素」を考える生き物だと認識しているが、『非常に小さな要素』となり得たところで決して自分と社会の関係性が断たれるものではないし、なんらかの罪が隠蔽されるものではない。自分が乗っかっている作用素が右でも左でもない。ながらく作用素として生きてきていましばらく「自分の(自分自身の)作用素」がためされているとするなら、同じ生き様(よう)として「どんな作用素であれば」消滅と生成の最小限としていきられるか。hもつまり多項式環の閉体であるということである。閉体を閉体で割った余りは当然割り切れるということだ。これはどんな閉体hを選んでも同じであるということだ。たとえ0環hであってもだ。この場合0は確かに環なのだ。環を環で割れば確かに環だ。この作用は当然実質的なf(x)(=Σa_kT^k,f'(x)=ka_kT^k-1となる)に代入しても成り立っているのだ。これを考えると一個一個の整数もまた「環」となる(一個一個の実際もまた環となる)が、0との連続的な関係が成り立っている限り、微分は定義できるということになるだろう。これを考えると連続的な関係が成り立っていないとはどういうことなのだろう?体的(文字通り個人の体)な意味で、あるいは思想的な意味において、あるいは社会的な連続性(あるいは意味)において、あるいは宇宙際的な?ことで成り立っていないということであろうか?宇宙際的な意味で、あるいは体的な意味で成り立っていない(あるいは危うい)ということは容易に想像できる。我々は個人を完成させて、あるいは個人的な意味では個人は完成させられないかもしれない。この意味で「devisorを狙っている」「個人」は一体どこからやってくるのか?仕事か?短絡的な。単に音として仕事を認識している人は。殺しのうちに人を成り立たそうとしているのだろうか。必ず体的な還元になりそうなことは承知しているが、なにと一体を成して体となるかは余論(議論の余地)がある。体的な要素が少ないものは実感として受け入れて難いのである。これは「頭のいいやつが話すことはわからない」のように典型的に存在している体の離脱である。数学者が数学的実体を実体として感じている(受け取っている。あるいは受け入れている)ことと双対の立場にあるといえる。かといって相対論的な要素を「頭のいいやつが話すことはわからない」「数的な実体を受け入れている数学者」双方が受け入れがたいという状態は、結局体として我々共通に「空間が歪んでいる」概念が受け入れがたいからなのではないか。このとき我々は相対性理論の「divisor」となっているのだ。