ご家庭で最先端の宇宙研究をやりたいと思って家に望遠鏡を置くこと

ご家庭で最先端の宇宙研究をやりたいと思って家に望遠鏡を置くとする。最近はジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡が人工惑星として打ち上げられ、地球と共に太陽軌道を回っている。宇宙に打ち上げられた主な理由としては地球大気による観測の影響を減らすためだが、もしご家庭に望遠鏡を設置した場合は当然ながら地球大気による影響を補正しなくてはならない。地球大気は対流が起きており、コルモゴロフ乱流も発生する。宇宙に打ち上げられたジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡でさえ観測する天体に対して宇宙全体で起きるコルモゴロフ乱流に対する補正を行っている。つまりはまさにご家庭で宇宙全体を観測したいと思ったときには相対論的流体力学の真っ只中にいるということになる。かの天体から発せられた光が我が家に届くまでには度重なる重力変化により光はぐにゃ曲がり、あるときは枝分かれしてかつ結び、有名なアインシュタインリングを形成したりしながら我が家の望遠鏡まで届けられるのだ。鴨長明方丈記さながら「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」が宇宙規模にもあてはまることが実感できよう。しかし、これらのようにご家庭で最先端の宇宙研究をしようとする試みはその障害をクリアするという意味では本当の意味で宇宙生命の営みを乗り越えていくという実質的に役立つチャレンジであろう。ある人はサハリン2プロジェクトからの撤退は、日本に入るはずの石油や天然ガスが中国に行くようになるだけだと焦燥感を増しているが、やるべきことは変わらない。エネルギー依存を減らし、持続可能なマテリアルとの関わりを築くこと。服もリサイクルすべきなのだ。エネルギー依存していることはどこかにドブのクズを撒き散らしていることに他ならない。ツラの皮だけきれいにしていてもしょうがないのだ。脱炭素の先には『脱電素』があるように思う。その目標としてあるのが「カシミール力」の利用であるように思う。我々は真空のエネルギーとの関わりを当然の事としていかなくてはならない。東京も最後は自分を畳まなくてはいけないのかもしれない。京都も最後はゼロエネルギーで空に浮かばなくてはいけないのかもしれない。クオークの語源となったジェームズジョイスの小説。その小説ではないが「ユリシーズ」はとある男の24時間の物語だという。節の最後は必ず「〜と思いながら脱糞した。」とか「放尿した。」とかで終わっている汚らしいバッドエンドであるが、緊張感を与えすぎかもしれないが、皆さん。言い過ぎかもしれないが何もせずに明日が来ると思うなかれです。技術的な問題以上に人間的な「ミスった」→「隠したい」が一番お金が掛かるのです。むしろそれにしか金が掛かっていないのかもしれません。強気と弱気の分かれ目がいつまでたっても技術と人間の、文系と理系の分かれ目になっているのです。「いいわ俺には技術があるから」でいつまでも弱気を取っていっても、実はそれに物凄く金が掛かっていることもあるのです。つまりは技術の高さが他人にプレッシャーを与えているということです。誰かの「一歩」はどこまで行っても「大切な一歩」です。クズいもクソもありません。誰かの「語気」で吹き飛ばせるようなものじゃないのです。語気に頼るような話し方になったら、それは「誰かの一歩」を軽んじているのです。だがつまりはこれが流体の「ラグランジュ的な描像」と「オイラー的な描像」である気がしてならない。ある意味流体としてどこまでも流線としてあり続けられることも。オイラー的な描像をするなら「人間としてふつうにある視点である」といえる。途切れることも。「誰かが僕の音を拐った」そんな点と点の。大きな力と小さな力が交換するかわからない。「パン一つで人を殺す」いつしかそんな視点の中を歩いているのかもしれない。「人の一歩」と「独特な存在」は成り立つのだろうか。フェルマー面やリーマン線の存在はどこまでもオーソドックスな気がしてる。ただそれは「存在するのか」人間はあたかもそれがあるとして生きている。時間は存在するような気がしてる。それがフェルマー面として?リーマン線として?フェルマー線の最短距離とは一体何なのか?逃げ道なのではないか。超伝導では成り立たない。だから「脱電素」と言っている。