シンプレクティック波動の作り方

シンプレクティック波動を作り出すのに非常に長いスケールの不変な波動を作り出すのはムリだと思われる。もちろん「私」というもっとも普遍な波動で(を)作り出すのが哲学的な目標ではあるのだが、ある意味この(種の)波動は最終的に私は私として残る。「変われるものは自分だけであった」というような結論に近いものもあるが、最終的には私を主としたムリのない(あるのが自然な場合もあるが)状態(もの)に落ち着く。であるから目下短期的でよりローカルな(地域的な)範囲(に限定した)のものを「連続的に」大量の計算量で(的確なニューラルを用いたもの)繋げていく(滑らかな解であるように。あるいは望んだジャンプであるように)ようにするのが個々の気分にあわせたものとしても現実的である。単純な一本気の自分にはならないが、世界の方が一本のシンプレクティック波動として現実を見通せるように変わったいくと思われる。(よりフレキシブルな状態として。)案外実態は学部で物理を学んでいくような単調なものになるかもしれない。それにテンション(士気)のだだ下がりをかんじるのは、「人に翻弄されてきたトラウマによるもの」であろう。人々が趣味として目の前のことに向き合うのが自然の姿になれば、より自分自身のシンプレクティック波動を築き上げるのに費やされるようになり、それによって自他ともに「シンプレクティック波動を作り上げていくんだ」(「それは他人とは違ったものでしかないんだ」)という尊重の状態を自然に作り上げていくことができるだろう。もし自然な姿が認められるのであれば、いちいち他人を牽制しあう必要もなくなる。恒久的なシンプレクティック波動がないのであるから、「より柔軟に目の前のシンプレクティック波動を作り上げる(対応していく)」ことこそ本質である、と気づけるだろう。永遠の安全な場所など空想にすぎないと知ることから。ただノイローゼでヒステリックにリセット願望にそんなことを考えているに過ぎないのだと。もしかしたらこのような「一人一人ちがうシンプレクティック波動こそ」多様性をもってホーキング輻射を検出したり、常温超伝導のCu複合体電線を(インフラとして)張り巡らせる新しい計算の礎になるのかもしれないのだから。昔NHKに「みんなちがってみんないい」という歌番組があったが、「みんなちがうことが(新しい枠組みに)絶対的に必要」なのだ。それにしてもそしたらどう体を結び合える?「つかれている」と思っているヒステリーの種であるのに「頭まで届く」ような疎通のアクションというものは「頭までぶっささったままになる」というものでは決していけない。『ああ。ちょっと主体性を失うほど言いすぎてしまったかな』とか。話していると必ずヒステリックになって頭まで犯そうとしてしまう(洗脳)は人のサガ(性)であるのか。人の頭に我々は住もうとしているのか。刺した先は頭「アタマ」であるような気がしてならない。「アタマ」まで話すことは好きな人とじゃなきゃやっちゃいけないのか。とにかく私は多様性が資源であり、絶対に必要なものだと考えている。そうでなくてはこの先の私の計算はありえない。いままでしてきたことも成功とはいえない。ここまでそれは具体的な形になってはいるが、最後に「性交」というおかしなものに「相矛盾する形として」多様性を失うものをかんじている。そうであろう?相手の頭「アタマ」を犯すということは。それも音は否応なしに相手の頭を犯すと考える。どんな言葉をいって相手に話しかければいいんだ。それはつまり意図的なものではなく、私のマインドセットでしかないと思う。つまりは気分だ。多様性は必要だとわかっているが、それでも「性交」したい。これは言葉を発することもそうだ。私の言葉を話して(拡散して)いる。それはつまり私の世界観を拡散しているのだ。私の平均値に収まれと。言葉のエッジを取っていない。だがそれはつまり最初に申し上げたとおり、私も誰しも「最初にあったものとたいして変わらない」収束地付近をもつ確証すらあるから、また「何言ってもどうせあまり変わらない」「人は人々にそんなに影響されない」と考えることなのだ。それを考えたら金のために調教された人間なんてむなしいだろう?「本来人は人々に影響されることはほとんどない」のだから。ただ闇雲に闇をもってそれを吐き出して(コンパクトに。見た目は)いるだけだ。これには力を小さくする「重」の働きはあっても破裂するような「破」の要素も揺れる感情の「揺」の要素も陰のものでしかないのだ。この先はなにものにたどりつけるものでもない。惹かれ合う。惹かれ合うとはどういうことなのだ?なぜかテイラースイフトが頭に浮かんでしまった。否応なしに体が。