司令試験

頭は束ねるものじゃないんじゃないか。頭は個々バラバラなものでそれぞれが使うものはそれぞれにしか作れず、したがって頭を束ねるのは分裂を産むのではないか。抑圧したがって。大人になって40,1,2。偉くなってきたから司令試験でも受けようじゃないか。そう思ったときに、べつに金も欲しくはない。むしろ嫌っている。最後はなくなればいいと思っている。なくならないのは子供の恐怖だ。女子と。金がなくならないとすればこれがなくならないことだ。一方金を持っているのは石橋を叩いて渡ってきたおっさんだ。頭を束ねる必要があるのか。たとえば大きいことに政治的な判断を下すとか。富士市に保健所を置く(置きたい)としたらこれだ。頭を束ねてこの思想を普及させる。果たしてそれは妄想・妄言をいって人を洗脳することではないし、むしろ市民一人一人が医療機関に対する責任を負う(経営など)としたら負担を強いる(増す)ことのほうが多い。つまりは市民一人一人が「バカではいられない」(「先生、先生といって」)ということだ。であるなら我々が(私が)やることといったら産まれた子から途上にある若い人たちを「上から束ねる」なんてことじゃ決してない(はず)気がする。上から束ねようとすれば若い世代は必ず「はったり」を使う。かつての私もそうだったかもしれない。それは上が上から束ねようとすればこそそうなるのかもしれない。上なんてもんは先述のとおり一人一人のゴールはちがうものだ。女の子だったらただ生きたいだけかもしれない。それこそ他人の過度な干渉を受けずにだ。他人の干渉を引き剥がすことこそ目標とするところであるのだ。これに対して司令試験は逆をいってる気がする。もちろんイメージがだ。1mmでも鼻持ちならない部分があって、そうゆう気持ちは慢性的に人にうつるものだ。恋敵イケメンにはったりを使うがごとく。上などないのだ。画一されたアラーのような鉄球がぶら下がってるかのような集合体は。敵がいればこその「はったり」なのだ。それこそが「上」ってゆう概念→ニヤニヤみたいなもんなんだろう。金さえもってる。さて私は「飛行機作りたい」とかなどの割りかし「理系寄り」の趣味が好きなのだが(できれば女子もその趣味であってほしい)、実際私に求められるのは『人のこころ』に関わるような「文系より」の仕事のほうがはるかに求められる。これは頭がよけりゃいいってもんでもないし、そうだろう?たった一言いえなかったことが原因で発生している仕事がこの世の仕事の9割方なのだ。それはある種の殺人まで辿り着く。これに関わる仕事をしなくてはならないのだ。それはもう文字通り「体が引き裂かれる」ことなのだ。誰しもの内に秘めた不満と、それに伴う爆発と、微妙なこころの揺れに「自らの体自体が」「その通り道になる」ことなのだから。好き好んでやれることではない。負担は増せば増すほど足りないといわれる。闇に向かい合うとはそういうことなのだ。すくなくとも若い人の「はったり」の原因となっている「上」の存在はなくさなくてはならない。上が束ねられたものであることはほとんどない。もしかしたら保健所そのものさえも「個々バラバラな健康管理のさらなるダイバーシティー」であるかもしれないのだ。もはやまったく一人一人の健康管理は画一的な指導を行うことはできないのかもしれない。誰かは豚汁を食い続けることが最大の健康管理なのかもしれないし。もし私が若かったらどうするか?やはりいまあることを続けるかもしれない。自分が自分でいてなにも怒られないことを望む。「自分が自分でいてなにも怒られなかった」「今日も怒られなかった」そんなことを積み重ねていく。ようするに「自分を尊重された」そうでなければ優しさがなんなのかもわからない。「公務員の鎧を着る」などといったVを見せられたが、「人」と「公務員」がそんなに違うかといえばそんなに違わない。「公務員の鎧を着る」なんて過度にいわれ続けたら「闇を深める」だけなのではないか。「自分でいちゃいけない」ということか?「鎧を着る」ということは「敵がいる」ということなのだ。怖いのだ。そんなに公務員、公務員いわれたら。「人は」といってくれたらいいのに。とにかく一人一人は違うのだということをいいたい。我々一人一人には顔も命も体もあってやってることもやりたいこともモチベーションの種も形もぜんぜんちがうのだ。そのあたりで協調ができればいいのではないか?そうでなければここからは一歩も進める気がしないし、闇の矛先は結局「女子」ということになる。女子にだって顔はあるし、体も命もモチベーションも他の人とは違うのだ。身の守り方だって一人一人画一的なものではまた違った私の体を守ることはできないのだ。むしろ男は「無抵抗の女子を作り出す」ことを目標としているときく。画一的なんて危険でしかないのだ。