対生成。宇宙進出していきなりぶちあたる「光速を超えること」たいしたことできやしないこと。ソフトな評価の度合い。「4次元に見られている」のだろうか?こちらがみているのだろうか?

なにもないところから生み出せると評判のこれだ。これを考えると「線素」なんかも対生成しているということになるがどうだろうか。なんとなくイメージではありとあらゆる対称性を考慮して新たな評価を与え、たまたま評価できるという線素を生み出しているというイメージであるが。逆化学を考えたときこれをイメージしてしまった。代数系においてなにもないところから新たな代数系を生み出すことには成功したが、幾何学的にあらたな幾何学を生み出したという気にはまだなっていない。「○」と「△」が生まれ、「このふたつは同じものだ」というには「人」は「このふたつのちがい」を探し始めるという目を当たり前のようにもっている。ならば「このふたつは同じである」という前提から話を始めてはどうか。「線素として作りえるもの」といった具合に。オイラー幾何学定理がこれに近いことをやっている気がする。エネルギーを考えずに幾何学的に同等といった具合に「○」と「△」が「一筆書きするもの」以外に「ある変換においてエネルギーを決める」とすると「なにもないところから自分の物理を作りあげる」ことができるのではないか。それはもちろん可換として「自分のもっている場」に適応できる。つまり「自分と他人はちがうのだ」という確固とした証拠となりえるということだ。ある意味これは「自分の通貨」であるのだから、「公共の物理」(たとえば超弦論。これも公共であるとは言いがたいが。)との関わりあいを逆算していくことができるのだ。それを考えたらミラー対称性を仮定するなら光速を超えることなんて当たり前なんじゃないか。エネルギーを仮定しなくても単に「その長さで書けるもの」でもいい。「ならば同じ」だと。たとえば「同じ長さで書けるものは同じと距離を定義する」とかだ。「上から見る」と「上から見ちゃう」はなんかちがうんだろうか。「自然なものであること」そういうことだろうか。アメリカの道で戯れているバイソンを「上から見る」とかそういったことだろうか。「光速を超えること」まず最初の壁がここにあるのだが、ふつうにものを考えたとき、ふつうに壁に寸断されているのは。これは「4次元に見られている」のだろうか?こちらがみているのだろうか?それかソフトな評価の度合いをいっているんだろうか?またあんたの嫌いな「で?」って言っちゃったなー。俺もたいしたことできやしないのに。宇宙進出していきなりぶちあたる「光速を超えること」たいしたことできやしないこと。ソフトな評価の度合い。公共を作る。逆化学で。やはりエントロピーが自分を収支して一周(ゼロエミッションになっているか?)要請としては(∫Fds=□E)手段としては自分に必要なものを「全部1から0から作り出す?」「○=△」で「ソフトな等価」の「評価」を「していく」