牛を食べるんじゃなくて、牛を見るってどうなの?

栄養にならないかな?なにをばかなこといってるんだと思うかもしれない?じゃあ米も見るだけなのか?無論。米も見るだけだ。われわれは『よく知らないで食べている』ということだ。根絶やしにするって。我々は重力のほんとうの意味をしらない。根こそぎに刈り取ろうとして、はたしてそれは根こそぎになるものなのか。ほんとうに根のさきから命を摘み取る時期を知ることは。米も牛も、凪いでいるそれを知ることなのではないだろうか。命がどうしてその平安さをたもっているか。それを知らないで、ほんとうに刈り取る時期を知れるだろうか。米も牛もほんとうに生きて、幸せそうに死んでいくその姿を知らないで。われわれはほんとうにその栄養を手にすることができるんだろうか?山も海も眠っている。幸せに包まれて、その姿を見ないで。われわれはほんとうに生きてきた意味を知れるだろうか?どんなふうにして見るだけで栄養を摂取する?そのやりかたはしらない。だが、われわれは、しあわせをしらないで、どうなの?なんのためにたべているの?つなぎのためのいのちなの?たべなくてもだれかれがしあわせになれるなら。祈って息を吐くような気持ちも必要なんじゃないか。細くなって、われわれがしんで、それ以上のものになれなかったとしても。命を惜しんで指で撫でることもできるんじゃないか。農業にとっていちばん大事なのは観光なのではないか。観光とはつまり俺を見ること。冗談はさておき、今度米をもって、肉をもって丸火にでもいってみようかと思う。だれもいない公園で米を炊いて肉を焼いて。なんかを知れたような気になるかもしれん。水もない、とか。網もない、とか。ナベもない、とか。このへんはなんかありもんで作れるかもしれん、とか。スチールのコップをもってけばいいのかもしれん。なら、ポケットに入る、とか。いかんせん、もえるような木なら、肉ぐらい乗せられるかもしれん。とか。米とかも草で包めばいいんじゃないか。笹みたいなもので蒸し上がる。そしたら自然からまたちょっと借りて。なら、スチールのようなものも作るのも、エコなんじゃないか。スチールの木型で。量産するのもエコなんじゃないか。だが今時分、これを考えたい。スチールの木型一こニこ作るのも個人的エコになるようなものを。だったら始めっから鉄板を一枚もっていけばいい。簡単に曲げれるようなスチール板を。これが三まい四まい売れたところで、またゴミの日に出してリサイクルすればいいだけなんだから。売れるかな。『これは、キャンプ(バーベキュー)用の木型の板です』なんつって。『はー。なるほど。』と思ってもらえるだろうか?大変加工がしやすい木型で、クニャクニャです。まてよ。そんな塑性がある板を作れるだろうか?火にも強い。有害(有毒)物質を出さない。アルミか?だったらアルミ缶の空き缶で十分じゃないか。行きの自販機で買って、缶切りで上を開ければいい。ばかなことを考えたもんだが。これで十分なのだ。われわれは『足るを知る』ことが、これほどまでにできないものなのだ。だから戦争さえ起こる。足るを知る、までを知る道ときたら、ほんとに恐ろしいもんだな。ヒステリーでアルミ缶を買わない、とまできたもんだ。だが、人の命の必然性は。話しかけられるのを嫌う、までいくもんだ。ほんとうに悪なのは日本じゃないか、もよく考えたほうがいい。ミイラとりがミイラになる、を。裁判官、警察官はその鞘に収めてこそ。ふだんは農民でもやってたほうがいいのだ。あれらは臨時の職業であることを忘れてはならない。とはいえ犯罪はどんどん高度化するのは何故だろう?相対論も、あってるかあってないか、ではなくて。『これはこうだろう』、と。『パッ』と光を、あてるまで。量子センサーは子守り歌。