乗り物(循環に好都合な形状)

われわれのもっとも不可欠な乗り物はこの地球ではないだろうか?われわれはこの乗り物を作ることを目標としている。乗用車もしかり、トラクターもしかりであるが、この乗り物のマニュファクチャリングこそわれわれの究極の目標であり、これを何個も作ることがてきることこそ『乗り物を作ることができる』と呼べるにふさわしい。トラックもトレーラーもエアクラフトもこれらの付属物としての乗り物いわば血管のようなものにすぎない。天王星に近いものであればいわば『第6型』といったようなセレンなどの必須元素を含む循環型の惑星を形成しなければならない。いずれにせよ問題となるのは[その型をどうするべきか]ということであり、われわれが設計した段階でその存続のすべては決まってくるものである。あるものでなにもかもを作ることはできないだろう。だが不可能と呼べるほどのものでもない。大切なのは我々が飛ぶ(飛び立つ)ことができるかどうかで、あとはわれわれがそのとき必要な困難に立ち向かうことだ。それがつまりは【生きる】ということなのだから。欠乏することと生きるということは常に紙合わせのものなのだから。果たしてわれわれは紙面上でもどのような命をつないでいるか。球の形状が大切に思ったことはない。だがそれは〔循環〕に対してどれだけ好条件をもっているか。われわれはどこかで循環を嫌っていた。それはわれわれが欠乏することに飢えていないからだ。刻一刻と失われていく球状の乗り物を、命がぶりかえすまで0から作り上げたことなどないからだ。それはわれわれが球状に「みえないその向こう側」まで循環を考えたことなどないからだ。自分が育てた子から呼吸を吸うことまで考えてはおるまい?ほとんどがそれを引き継ぐまで手付かずのまま未来の世代へ送っていただろう。電動を切ったものが未来の世代へ血管をつなぐように。われわれは完全に見えないものを命の集合へと返しているのだ。