農業機械を作者のニーズに合わせて多種多様なものを作り、また作り上げた機械を解体し、次の制作のためリサイクルしやすい部品とすることが望まれている。農業とは元来、大量に作って大量に消費することをメリットとして単一の作物を大面積の作地において栽培することが望まれた。これによって作者は、同じ姿勢、同じ作業を反復して大量に行い、長時間の同一作業を強いられていた。これによって農業従事者は主に腰の負担を強いられてきた。ところが、「好きな作物を自分が食べたいだけ作る」となった時に、この大量同一作業をする機械、あるいは大量長時間同一は必要となくなるわけだ。農業は元来、嗜好的作業であるべきだ。つまり、というのも『食べ物に対しても、『食べる』という作業』は完全に嗜好的な作業であるからだ。『食べる』という作業が嗜好的であるのに対し、『作る』という作業が嗜好的でないのは、ある意味のミスマッチなのではないだろうか?つまりは望まれているのは、『大して大量には作らない物』に対する『嗜好性のある』機械なのだ。ある意味「機械化」というものに対し、逆行しているかに見える。2本3本切るのに機械は必要ないかに見える。また種々択一に植えた植物(しょくもつ)を収穫するには個々一つ一つに個性を合わせた機械化が必要になってくるように思える。楽しく作業するのが必要であって、楽しくないのは農業ではないのだ。腰を痛める苦役でしかない。作業自体が楽しくなるような機械、つまりは『流用できそうな『完璧には』合わない機械』を使い回しして[つまんない「妥協された」気持ち]になってはいけないのだ。それを「おいしく食べる」ための完璧な機械でなくてはならない。それには少量生産・高リサイクル率な機械でなくてはならない。高リサイクルというかリサイクル率は100%でなくてはならない。簡単にデザインができて簡単に実行に移せるということだ。たとえばCATIAによるCADシステムのような。我が作物、あるいは「私の作業」にとって完璧で、「さらに改良が望める」(1日ごとでも手軽に)といったところだ。「少量生産・高容易請負改良メンテナンスな製作会社」が望まれるということだ。これには農従事者に対する日々のコンサルも重要であるし、希望を引き出せる優しい人格も必要だ。受注も納得のいく支払い継続可能なものでなくてはならない。たとえば1日(1回)のカスタムチェンジで700円だとか。農作業会社のガジェット大量ストックも望まれる。あらゆる作物があるとして(例えば(メジャーな)作物は700種)、植物の種数は底知れないが、作物さえも畑作業の嗜好者が爆発的に好みに合わせられるものでなければならない。そのほうが栄養の観点からも、これからの時代、将来のため、爆発的に豊富な栄養素と、あるいは感覚的な栄養素(食べている食覚の違い)のため、さらに豊かな人間の感性が育まれると考えられる。それは人類にとって(指数関数的に飛躍的な)プラスとなるのではないだろうか。我々の感情が豊かになるということである。(そして人類の個々オリジナルに多様な感性を守れる、→人類は飛躍の一歩を遂げる。ということである。)我々の経済というものも考えてみてほしい。効率の型に人類を当て嵌めるということの愚かさを。そしてこれからの(20世紀までそれをやってきた)発展のなさを。守るべきものは効率ではなく、我々の感性である。