牧畜
牛を何頭か飼って、繁殖させ、必要な分は食べ、農業をしながら、といったら自給自足のようかもしれないが、もし食べるものの味に拘らないとするなら、害獣を罠などで駆除する方法でもたんぱく質など必要な栄養分は補える。これを行えば牧畜しなくとも、米などを栽培するだけで生活ができる。というか、もともとご先祖はそういった暮らしをしてきた。
人は生活する上で、いつのまにか人の意図する方向に生活するよう指向が定まっていくが、もし誰の影響も始めから受けることがなかったら、今行っていることの生活スタイルが、本来生きていくよりも過剰な労働を払っていないか、すべて起きてきた過去からの資料を元に再建してみるといい。生まれた時から既に巻き込まれてしまったことの多さに気づくはずだ。
無論このようなことは、多くのことを瞬時に知れる今だからこそ、早く気づけることだ。ある人は政治的な力があり、ある人は官僚的な力があるとする。どちらも不完全な力であるが、だからこそお互いにできないことを押し付け合い、結果誰の為でもない、人格があるんだか、ないんだかもわからない「法人」を築き上げて、配当だけは徴取して、誰も幸せになっていない機構を作り上げてはいないか。
組織に甘んじている、とするものを全部取っ払ったら、そこにはいったい何が残るのだろう。無知を出汁に人につけ込むことがなんとも悲しい。そこに体重を掛けているだけでいい、なんて正当化もしようがないではないか。
動物を処分できる、と感じているわれわれも。ほんとうだったら畑の作物を食い荒らす害獣と変わりないのかもしれない。侵入してくる害獣を美味しくいただけるなら、鳥も熊もありがたいのかもしれない。ただ剣だけは磨いておくことができない。われわれは爪も持たないのだ。そんな意味でわれわれは爪を失ったわけじゃない。虫も鳥ならば美味しくいただいてくれる。農作物を食い荒らす虫を鳥が食べてくれ、その鳥を私たちが食べれるなら農作物のために虫を殺すこともない。
いつか文明が踏み潰したものを、幸せと感じるときが来るかもしれない。われわれは流されずそれを判断すべきなのだ。いつかと同じように、われわれは持たざることをも選択していかなくてはならない。それを考えたらわれわれの敵はやはり人間であろう?
人の思想が一番発電所に違いない。われわれが社を組むのに一番の理由が他国からの侵害とは。等しく恐怖と欠乏から逃れる。