格子

目の前に「リー群と表現論」や「保型形式特論」といった本があるが、私は何かしらこれらの本に関して「格子」のようなものを感じていた。それらはもちろんこの世界の基礎となる屋台骨のような格子であるし、物理的な世界においてそうであることは疑いようもない。それでも私は「組み合わせ的代数論」といったようなものに人間の可能性を感じるし、物理学の骨子にもなっているこれらの数学は「むしろ物の方からの要請」であるような気がしている。なんとなく毎日起きてこれらの本を読んでいれば一歩一歩大きくなって第一線で活躍するような例えばエドワードウィッテンみたいな数論者になれるような気もするし、どこかで「好き」「好きだからやる」という気持ちを失ってきているような気もする。現代の超弦論は非常にオーソドックスなものであって物理でなくてもファイナンスでもゲーム論においてもはたまた工学的な偏微分方程式においても非常に有効なものであると感じる。それでも量子重力の説明までいくと私自身納得するようなものではないし、図形が破綻するような状況で果たして時間や距離といったメトリックが相対論的なままで成り立つのかということが非常に危惧されている状況である。つまり真の答えは180°ひっくり返ったような人間側にあるのではないかと思っているのである。人間的なメタリックがこれらの理論を包括するというのだ。「死にたくない」といった感情も人間にとって様々である。「22」が「4」になったら人は死ぬといった状況で果たして物理学が人間を凌駕するであろうか?物理の格子が全人類にあてはまるほど我々の感性は没個性なものであろうか?物側の要請を携えて我々の個性的な感性による『感性的数論メトリック』を加えて「組み合わせ的な代数学」を計算不可能なほどに爆発的に交差させていかなくては究極の理論といえるような素粒子の全フォノンといった計算はなされないのではないか。骨子にあるのは2^2^n+1のフェルマー数によるF5以上のフェルマー素数である。F19までは合成数であることがわかっている。

ガウスはさらに1801年に出版した『整数論の研究』において、正 n 角形が作図可能であるための必要十分条件が、n が2の冪と相異なるフェルマー素数の積、すなわち

n = 2mFaFb…Fc(Fa , Fb , … ,Fc は全て異なるフェルマー素数、m は非負整数)
の形であることを示した[6]。これは 1 の原始 n 乗根 ζnのガロア群の構造が 2 次拡大の繰り返しによって得られることの特徴付けとして得られる。自分自身の感性の正規拡大というのも考えてみたい。展張しつづける格子は自分自身の感性を含んでいるか。増えていく格子は食欲みたいなものに似てる。