脅しに屈していては人道支援はできない

せかいを良くしようとおもったら困っている人がいなくなればいいと思う。暴力に翻弄される人たちを助ければいいと。だが、貧しい人たちからお金はもらえないし、危険地域で活動しなくてはならない。われわれはそんなに頭が良くないので、生活を豊かにすると落ち着くのに、そのような活動をすることがふつうだとはあまり感じられない。人は非常に気分屋であるため、助けた人が優しい人にキレ散らかすこともしばしばある。そのような商売が先進国にはあることはあるが、私はさらに正直であるために「金持ち向けの上等な品物」を作ることもできない。だって金持ちだったら裏切っていいかといえば、それも立派な愛情の不足ではないか。先進国に貧しさがないかといえばまったくそんなこともない。政変といえばまさにそれで、これは「付き合ってる人」が変わったら生活が一変することをさす。ある意味昔の女性はこれだったかもしれない。人によって態度が変わるのであれば、まさにこれだろう。金持ち向けの上等な品物を作るリスクかもしれない。生活が一変するような相手とは真に娯楽で付き合うべきだ。つまりは女性は女性で新幹線でもロケットでも維持するのがよかろう。そのような意味では援助の意味も支援の意味も変わってくるだろう。自分が手を出すことで一変するものを作り上げるのは脆弱なものであるのだ。毎年支援の額は増えてはいるが、支援を必要とする人の増加は残念ながらそれよりも多いという。金持ち向けの上等な品物とはやはり「感情の爆発」をさすものかもしれない。平凡なインフラの整備だけではもちろん人は生きていないし、至って与太のこころを受け流すことも大事なのかもしれない。政権が変わって女性や子供が大切にされなくなるのにはガッカリする。ガッカリするだけでなく人の感情の慰みものになる。われわれが築き上げてきたものはこういった感情と実態のバイアスに過ぎない。バイアスがあるからこそ高エネルギーであるのだ。弱い力も大きく揺れているということを。だからこそわれわれは大雑把ではなく大きな力を動かせるのだ。われわれはほんとうに頭が良くない。このようなバイアスを人から言われただけではさっぱり理解することができない。このような定期的にブチ切れるデカい力と自分の力をまったく必要としない自助努力を育成していかなくてはならない。このようなことをふつうに思えたら我々の習慣にも「花が咲いた」といえるのではないだろうか。喜ばしいとせかいを眺めながら。つまりは「壊れにくい」世界であろう。3人ぐらいの殺し屋に尾けられても大丈夫だ。ほんとは「人の心」、を作りたい。いたって「まっすぐな棒のような言葉を話す」が愛情をためす目の自由は守りたい。重力と光の合同さを。力と愛情の羽ばたきを。