法がある、ということはそれに関して論争があったということだ

改悪されているということは殆どない。つまりわれわれは過去のいざこざを引き継いでおり、過去のいざこざを回避できていることが殆どだ。だからわれわれは息苦しく感じるのかもしれない。過去にあったいざこざ自体を経験しているわけではなく、いざこざを回避するためのツールだけがそこにある。だからこそそこにある責務だけを感じてしまい、重荷の方でしか受け取れないのだ。「過去にはこんなルールに縛られてなかったんだろうなー」などと思って、逆にいえば権利の侵害があったということだ。その侵害の辛さは神話的にしか知る事はなく、果たしてルールとして精神的にだけ縛られていることと、侵害を間に受けて体力的にも辛いことのどちらがいいかの判断が付かないことなのだと思う。

行政の肥大が物語っている。素直に考えれば1970年の国債が2.9兆円、今の国債が1,000兆円。「やるべきことが300倍増えた」と言っていい。モラルの方は300倍増えたのか。侵害ツールだけが300倍パワーアップしただけじゃないのか。