「4=6」について

こんかいは「4=6」という式について考えてみたい。こんなこと考えるのも数学者なら。マジメに考えているからこそこんなことを考えるのだ。まず「4=6」を左側から成り立っている、つまり4=→6という方向性について考えてみる。この場合、4と6に対して、「2を足す」という概念が取り除かれる、ということになる。また右から左への=を考えると、同様にして「4=←6」→「2を引く」という概念は取り除かれている。ということになる。以下、同様にして考えると、また、4=→6の場合、「3/2を掛ける」という概念も消失されることになる。同様に4=←6ならば、「2/3を掛ける」が失われる。また、割り算の場合を考えれば分母と分子を入れ替えたものに対しても、「その演算の実効性が取り除かれる」と解釈できる。つまり、4と6の間において、この程度の「演算規則が失われる実効性をもつ」ということだ。

また私がこのようにして考えたことは、「すべての演算規則を失わせることは可能か」またこのようにして「すべての演算規則を失わせるのに『最小の消去演算規則』は何か」となる。これを考えたときに『演算規則全体のエルミートは何か』と考えることができるようになる。

「いままでやってきたことがいみがない」とはよくある話で、たとえば火打ち石で火をつけていたものが、「ライター」ができたことによって「火打ち石業界が破産した」とはよくあるはなしなのだ。つまりこのことによって火打ち石がライター「プラスチックと天然ガス」に分離したことになる。こうやって考えたときに我々の元出は「石」から「石油」と「採掘」になる。そうなったのなら「我々の命を削っているもの」は「石油」ということになる。また、われわれはこれから「石油」についても→「いままでやってきたことがいみがない」という打ち消しを考えることになる。これはある種の資源において、ニュートリノかもしれないし、カミオカンデかもしれない。またある種の資源が「私にとって『競合が非常に多く』『本来の私ではいられない』とするなら『だれの足元をおびやかすものでもなく』かつ『我々の資源でいられるもの』を探すことになる。これを考えたときに、以上で考えたような「計算必要性」の議論は非常に重要なものになる。誰かにとって必要な数学は、私にとって必要な数学とは限らないのだ。むしろ命を脅かすものであることも多い。これによって計算必要性を計量し、「他人がオススメする人の生き方は、」→「私にどれだけ合わないか」つまり、『私のリー環は一般のものではない』を証明することができるだろう。だれしもがおなじ「7」をつかっているものでもないし、「+」をつかっているものでもない。経閲している。

「3をひく」「4をひく」の規則性を失わせることを考えたとき、「3=4=7」が消去演算であることがわかる。だが、これが『最小消去演算』であるかどうかは疑問が残る。あるものにたいして『なさすぎる』ということも『生命を維持できない』(『危険性が大きい』)ということもある。最小であるかも重要な判断である。医者があつかっているのは「人の命」であっていつまでたっても「自分の命」ではないのである。「1=10」とすると「10倍する」「1/10倍する」という規則が失われるが、これはδ関数であるとしても『演算規則が失われ過ぎている』感が否めない。したがってこれは[この規則に対して]最小消去演算ではないのである。「医者」ということに関して。エントロピーcurlについても同じようにいえる。「経閲について」程度の差しかない。エントロピーcurlについて。ある種の概念が取り除かれる。