ナビエストークスとリーマン線

女の子が住めない程度の男。ナビエストークスもよくわからないで髪の毛が生えている。空を飛べるかはわかっていないが。流体は依然としてそこにある。風は吹いている。我々もその一部であるのは間違いない。誰かが一つ取って。誰かがまた一つ取って。彼らは陣取っている地面に。その地面に直線があるのもわかっていない。つまりは空も地面もわかっていない。リーマン線が拡張していって。それが流体を取り込んでいって。生命も全ての流れを取り込んだとして。誰かはその陣取ったガロア体の地面から太陽の下に一歩踏み出そうとするだろうか。私の体は自由自在に動けるか。パワーハラスメントな場ではまさに。自分の得意な分野に陣取り。その傍らでは癒せるような女の子が扉を開けて待っているんだろう。最後はダークエネルギーをリーマン線が取り込むわけだが。そのときは彼と私のインターセクションは全く違ったスペクトルで世界を覆っている。近接して離れ。どのようなQuasiparticleを形成できるか。まず私のElementary particlesで世界を渡らなくちゃならない。遥かなダークエネルギー。誰が手を携えてくれる。その挙動の片鱗さえ。エレメンタリーな参考書さえない。Arxivの論文を拾っていくしかない。つまり柔軟性とは「自分を失わずに異なる環境に変えられるか」なんだろう。これはスケール変換で移動することであるが、果たしてあり得なくなった過去の世界で生きる術を持つんだろうか。そこに正しい命の欠片もない場合にだ。ハラスメントが横行している場合。それは犯罪者を訴えるか公正させるのが正しい道でしかない。犯罪は正しくない。犯罪を見過ごすという裁量はない。やはり文系の見方は必要なのだ。そうでなければ「命の通わないナビエストークスとリーマン線」になってしまう。お金以上にもっといいものをあげられるようになったんじゃないか。つっかえた言葉で思考を巡るまえにあるあなたと僕の間のスペース。