つまりフェルマー面は「視力」そんな感じがする。リーマン線としては時間連続軸が有力であるが、素粒子の永遠性(つまり素粒子が永遠に発見されていくこと)を考えれば「暫定的な線」しかこの世界には存在しないといえる。

フェルマー面の精度は増していくが、リーマン線の精度が増すかはわからない。つまり地続きとして1本の線が永続的にバージョンアップしていくかはわからない。精度を増したフェルマー面が突然破綻することはあり得る。つまり以前の次元。だがこれは連続的バージョンアップではないか。リーマン線は個人のものとしてしか有り得ない。公共の精度を増していけない。その真ん中みたいなものはあるか。そこにいたいと思う。公共の線を発展させているのが個人の線である。逆に言えば「見え方」そのものに「他者の見え方」が余分なエントロピーを生んでいて、結局それは完成することはない。機械はある。機械になりたいのか。生まれてもいないということか?生きたいということなのか?つまりフェルマー面は「視力」そんな感じがする。リーマン線としては時間連続軸が有力であるが、素粒子の永遠性(つまり素粒子が永遠に発見されていくこと)を考えれば「暫定的な線」しかこの世界には存在しないといえる。視力自体もシンプルになり得る。つまり最大にフェルマー面を伸ばしていって、もとの多角形が最終的に5角形程度になるということ。リーマン線についても同じことがいえる。曲がりくねったリーマン線が複雑なザリスキー位相を経て、最終的に直線に近くなること。クインテッセンスはその人その人その時その時で違うのかもしれない。その人の詩なのかもしれない。クインテッセンス。鼻フックス。ちょっとの差だけどやるのとやられるのじゃ大違いだ。それを考えたらグローバルな数学とはなんなのか。温度巾ホッジ幾何は「距離」を規定しているのではないだろうか。時間ではなく。リーマン線として。その人の到達ルートであるのだ。当然人とは違うだろう。巡り合うこともある。系外移住に宇宙船繁殖はないと考えた。私の到達点はダークエネルギーカシミール力。これがクインテッセンスなら個人の詩(うた)になってしまうが(その時の)で無動力飛行機を作ることだ。すべての個人的なゆらぎ。